2023年9月28日 (木曜日)

バルトーク:2台のピアノ,打楽器と管弦楽のための協奏曲など

久しぶりにこの曲のCDを聴いた。ピエール・ブーレーズ指揮・ロンドン交響楽団の演奏による2008年の録音のCD(UCCG-53096)。

このCDの中には,ギドン・クレーメルの独奏,ベルリンフィルの演奏によるヴァイオリン協奏曲第1番の演奏(2004年)も収録されている。とても美しい曲だと思う。バルトーク以降の時代の世界中の作曲家達がこの曲を盛んに模倣した。

どうでもよいことなのだが,若い頃,少しだけ作曲をやってみたことがあった。しかし,やれるところまである程度やってみた時点で,自分の作風と作曲技法は,結局のところ,バルトークとその後継者らによって既に徹底的に採掘され尽くされた後の炭鉱遺跡の情景と香りのようなものだということを明確に認識・理解し,以後,作曲の世界とは完全に縁を切り,全く別の領域の人生を歩むことになった。

当時も今もそのことを知る人はほとんどいない。

学生から質問されれば答えるようにしているのだが,「人生とは,自分自身の可能性をどんどん狭める営みであり,最終段階では,他の選択肢がない段階(=死)に至る」というのが私の理解だ。これは,若い人たちにとってはちょっと惨すぎる意見かもしれない。

しかし,一瞬にして最後の日がやってくるわけではない。

人生のためのある程度の年限が提供されている。

そして,生きている間に何を楽しみ,何を苦しむかは,各人の自由だ。そのようにして自由に選択した結果がどうなるのかは,各人各様だとしか言いようがない。「運」によって左右されている部分もかなり大きい。

私の人生のための時間はあまり残されていないかもしれない。ひと昔前であれば既に死んでいるはずの年齢だ。日々,自分自身の知的能力と体力の著しい劣化を痛感し続けている。

しかし,まだ生きている。

残りの日々に何をなすべきか,この老いぼれに何ができるのかを考えながら,このCDに収録されている素晴らしい演奏を聴いた。

 

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2022年10月25日 (火曜日)

Quantumania

下記の記事が出ている。

 Marvel drops official trailer for Ant-Man and the Wasp: Quantumania
 ars technica: October 25, 2022
 https://arstechnica.com/gaming/2022/10/its-a-subatomic-family-affair-in-ant-man-and-the-wasp-quantumania-trailer/

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2022年10月11日 (火曜日)

ツェムリンスキー:抒情交響曲 作品18

別の楽曲のCDを探していたところ,偶然にも遭遇したので購入したボックス廉価版セット(APRICCIO)の中に入っていたツェムリンスキーの抒情交響曲(作品18)のCDを聴いた。演奏は,エッシェンバッハ指揮,パリ交響楽団,クリスティーネ・シェファー(ソプラノ),マティアス・ゲルネ(バリトン)。

演奏が非常に優れているということもあるけれども,それを度外視して楽曲それ自体として冷酷に観察した場合,聴けば聴くほど,マーラーが他人の良いものを奪い,パクるだけの秀才もどきの音楽家だということが非常に鮮明に見えてくる。

ツェムリンスキーの晩年はあまり幸福ではなかった。ナチスが支配する時代だったので,アメリカへ亡命せざるを得なかったのだが,英語があまりわからなかった。そのため,機会に恵まれなかった。彼の弟子(?)とされるシェーンベルクは,上手にたちまわっていたのだが,ツェムリンスキーに恩返しした形跡はない。

ちなみに,私は,シェーンベルクをあまり評価していない。破壊することには成功しているが,何か新しい潮流を生み出すということが全くなかった。単なる秀才の一種なのだろうと思う。

 

 

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2022年7月19日 (火曜日)

フルトヴェングラーとエドウィン・フィッシャーの「皇帝」

生前整理のために日常のかなりの労力を割いている。

だいぶ片付いていきたのだが,まだまだだ。自分の未練のような気持ちを消滅させないと捨てられないものが多すぎる。

生前整理とは心の整理でもあるのだが,これが一番難しい。

なにしろ,私は聖人でも哲人でもない,単なる凡人の一員に過ぎない。

しかし,思案していても仕方ないので,とにかく仕分け作業をしている間に,古いLPやらCDやらも仕分けすることになった。息子の意見によりLPは全て保存することになったがCDが難しい・・・現在ではネットでダウンロード視聴できるコンテンツが大半を占めている。

やっている間に,かつて東芝EMIからLPで出ていたものをノイズ処理した上でそのままCD化したものを見つけた。自分で買ったものであることは間違いないのだが,忘れていた(笑)

早速聴いてみた。

素晴らしい!

無論,個性または趣味嗜好の問題なので,好き嫌いはあると思う。

しかし,好き嫌いを全く度外視して,「このような演奏は二度と再現できない!」という点に異論のある人はほとんどないだろうと思う。

 

 

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2022年5月 5日 (木曜日)

スーパードライ

久しぶりに飲んだ。

あまり美味しくない。

本当に不味くなってしまったのか,それとも,加齢により味覚が劣化してしまったのか・・・よくわからない。

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2022年3月14日 (月曜日)

侵略型ゲーム

世間にはオンラインのものとオフラインのものを含め無数のゲームがある。

侵略型のゲーム類型は基本的な類型の1つに属する。

ある君主等を主人公として,敵国の軍を破壊し,敵国の君主を殺し,その領土を奪って自国の領土とするというパターンを基本パターンとする。囲碁と同じであり,獲得した領土が多ければ勝利となるというルールが適用されることが多い。

問題は,当該ゲームの主人公が,「どうして侵略を許されるのか?」ということに尽きる。

ある国家が侵略を受け,国防のための軍と統治組織が破壊され,君主または統治者が殺されると,民衆の生活も成立しなくなるので,実際には民衆の大部分が餓死等で死滅する。
このことは,中国の史書にも詳細に書かれていることであり,ソヴィエトロシアの時代に書かれたものではあるけれども,中国の歴代王朝の交替の際の極めて大規模な数の人口減少があったと推定されることを論証する論文が存在する。

現代と異なり,仮に何万人かの人々が殺され,または,流浪の果てに餓死したとしても記録に残されることがないのが普通なので,全ては推測によるしかない。
しかし,一般論としては,多数の人々が共存するためには安定した統治組織と生産組織が存在することが必須条件となっているので,統治組織が破壊されると自動的に大規模ジェノサイドのような状況が発生し得る。このことは,当然のことだと思われる。
ただし,中国の史書を読むと過去の君主の非道を例証するために(誇張はあるかもしれないが)大勢の人々が虐殺された旨の記述が残されていることがある。一定の事例パターンを可能な限り多数・豊富に知るためには,司馬遷の『史記』が最良の教科書であるかもしれない。

しかし,侵略型ゲームにおいて,そのような大虐殺が常に発生することを示唆するような情報提供が行われることはない。そのようなことをすれば,当然,そのゲームの利用者が減少し,収益がなくなってしまうからだ。

一般に,他国に対する侵略者は,「どうして侵略を許されるのか?」を自問することがない。当然の権利だと思っているからだ。それだけではなく,侵略し,相手国を破壊し,人々を殺戮または支配することが楽しくて仕方がないのだと想像される。そのような侵略者を支持する当該国の支配層や国民もまた同じ。

これまでの日本国の法学の領域において,そのような侵略脳(古代脳)をもつ者を,自由主義・民主主義を信じる者と完全に平等に扱うべきかどうかについて真面目に考察することは,それが危険思想と呼ばれることはあっても歓迎されることはなかった。工作員による長年月にわたる巧妙な学術操作の結果だと推定される。

以上のように,侵略を実行する者の側において,自分の行為の正当性に疑問をもつことがないということは,侵略型ゲームを楽しむ利用者でも全く同じことだ。

***

大学の「法情報学」の講義の中で,桃太郎の伝説を素材として,ストーリーの構造から何を汲み取るべきかを説明したことがある。ただし,ほぼ毎回実施してきた理解度テストのミニ感想文を読む限り,私の真意を理解できた学生はごく少数だったかもしれない。

ほぼ毎回,全ての提出物に目を通して採点している。かなり膨大な分量になるのだが,オンライン授業を実施している以上,当然やるべきことだと考えている。ただし,学生の中には,「そんなことできるはずがない」と思っている学生もあるようだ。

あくまでも一般論としては,自分の能力だけを基準として他者を評価することには常に一定の危険が伴う。特に,自分のほうが(能力的に)圧倒的に劣っている場合または未熟な場合にはそうだ。

それゆえ,日々,厳しく自戒することが求められる。

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2022年3月 3日 (木曜日)

ショスタコーヴィチ:交響曲第7番『レニングラード』

この交響曲は,ナチスドイツによるレニングラード包囲戦の中で書かれたと言われている。

ソヴィエトロシアのプロパガンダだとして批判された時代もある。しかし,明日は死ぬかもしれない包囲戦の中で,もしかすると遺作になるかもしれない作品として,自分がもつ全ての能力を注ぎ込んで作曲に没頭する以外にないという究極の状況を想像することができるとすれば,そのような批判がいかに表層的なものかを理解することができる。

実際,後には,「スターリンによって破壊され、ヒトラーによってとどめを刺された」ものとしてのレニングラードを象徴的に表し,全ての全体主義(独裁主義)によるジェノサイド行為を批判するために作曲された交響曲であるとの評価が定着した。

ベルリンの壁崩壊前の時代においては,国家を非難することは粛清(死)を意味した。それゆえ,作曲の意図を正直に述べることなどできなかった。

私自身の評価としては,現代において作曲された交響曲の中で,傑作として評価されるべき作品の1つであることは疑問の余地がないと考える。

分析結果に基づいて真似ることは可能かもしれないが,全く新たな作品として同じような作品を作曲することなど誰にもできない。

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2022年1月14日 (金曜日)

Herrewegheの演奏による大バッハのヨハネ受難曲BWV 245

とても大きな法令の翻訳を進めており,1ヶ月以内に終えられるかどうか自信がなかったのだが,どうにか目途がたった。

今日は,仕事を切り上げ,音楽を聴くことにした。

Herreweghe指揮によるCollegium Vocale Gentの演奏,2018年3月に録音された音楽CD(OUTHERE LC 24749)を聴いた。「Made in Lithuania (EU)」と記載されているところが素晴らしい。リージョンコントロール等の問題は全くなく,私のミニコンポで全く問題なく再生できた。

Herreweghe指揮による2020年の録音がYoutube上でも公表されている。これはこれで素晴らしい。映像を見ると,全ての演奏者が極めて優れた芸術家であることを明確に見て取ることができる。

大バッハのヨハネ受難曲には名演が多く,私も幾つかのLPとCDを既にもっている。

それぞれ演奏家(特に指揮者)の理解と哲学に基づき,演奏対象とする版の選択,合奏団及び合唱団の人数等が決定される。

Herrewegheの演奏は,現代では既に当たり前のことになってしまっている最少人数編成(見解の相違により,合唱団の各パートの人数は2名または3名前後,合奏団は,第1ヴァイオリンを除き,各パート1名)を基礎とするもの。

このような少人数編成による演奏は,とんでもない名手が揃わないと実現できないのだが,それが実現でき,かつ,成功すると,スコアの細部が全部透けて見え,微妙な和声の部分が信じがたいほどに美しく響くような演奏を耳にすることになる。

このCDの演奏は,楽曲全体の解釈を含め,全面的に成功している素晴らしい演奏だと思う。

第1曲の繰り返し問いかけるような「Herr」の緊張感が尋常なものではなく,心の深いところに突き刺さる。

このCDに記録されている演奏は,歴史に残る名演の1つだろうと思う。

***

一般に,大バッハの楽曲は,真の天才の作品なので,普遍性が著しく高い。未来において,別の編成,別の楽器,別の方法によって演奏されている可能性は十分にある。それでも,きっと残ることだろう。

これに対し,残念なことではあるが,現代の浮薄な電子的な音楽の大部分は残らない可能性が高い。そもそも未来社会において満足に電気が供給されている可能性を測定することは不可能であるので,何とも言えないのだが,私見としては,現在のような電子楽器が存在している可能性は実は乏しいと思っている。

***

大バッハは,真の天才の一員なのだが,主要な作品を何度も書き直した形跡がある。

ヨハネ受難曲はその代表例の1つであり,異なる版が存在している。

天才だからこそ,真に納得できる作品の完成を目指し,何度も手直しをし,大きく書き換えるようなことをしたのだろうと思う。天才であるがゆえに自分の作品に自己満足して終わりとすることができず,しかも,手直しのための地道な努力を死ぬまで継続できたのだろうと思う。

気力と体力を維持できるという能力もまた「才能」の一部なのではないかと思う。

 

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2021年12月24日 (金曜日)

クリスマスイブなのだが

いろいろと事情があって,少しもクリスマスイブらしくない夜を迎えている。そもそもそのようなことを楽しむような年齢ではない。

自分自身のことはさておき,一年中何でもスーパーマーケットにおいてあるような時代となっているので,季節感というものがないのかもしれない。

どの店にいっても,骨付きのローストチキンが売れ残って山積みになっている。世間一般に,そのような食品を喜ぶ時代は過去のものとなっているのだろう。

このところの日常に従い,夕食をとった後,今晩は仕事を一切やめて,音楽CDを聴くことにした。

2010年の録音のようなのだが,ロンドンバロックの演奏による18世紀イングランドのトリオソナタ集(BIS-CD-1765)だ。

演奏それ自体は標準的なものだと思う。特に奇をてらったような部分はない。

様々な作曲家の楽曲が収録されている。

比較してみると,やはり,ヘンデルは天才の一員なのだろうと思う。優れている。

ちなみに,少し前のことなのだが,大バッハのクリスマスオラトリオを聴いた。長い曲なので,クリスマスに聴けるかどうかわからなかったからだ。

ゴットホルト・シュヴァルツ指揮による演奏(LC 48946)。

ブックレットの中にある少年合唱団のメンバーの写真に見える表情がとても素晴らしい。バッハが生きていた頃の合唱団もこのような表情で唄ったのだろうか?

演奏は,ライプチヒの聖トマス教会でライブ録音されたとても貴重なものだ。

この演奏の中では,第5カンタータの「Wo ist der neugeborene König der Juden?」が良い。

私の大好きな第2カンタータ冒頭のシンフォニアは,何度聴いても,誰の演奏を聴いても,本当に美しい曲だと思う。

 

 

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2021年12月18日 (土曜日)

Sylvestro Ganassiのマドリガルなど

大学の講義とその準備等の時間は当然として,雑用の連続で途切れた時間帯を除き,かなり気合いを入れて続けていた翻訳をとりあえず終えることができた。

まだバグ取りを終えていないので,再度検討しなければならないのだが,疲れたので来週以降に回すことにし,音楽CDを聴くことにした。

シルベストロ・ガナッシ(1492~1557年)等の曲の演奏を収録したCD(ZZT081002)を聴いた。2008年に録音された演奏のようだ。

どの曲もやや地味で,派手さは全くない。とても落ち着いた良い演奏だと思う。

***

現代の著作権と関連する海外の法令や判例法を勉強していると,様々な場面において,常に,模倣や混合の問題と直面することになる。

理屈だけではわからない。

実際に,過去500年くらいにわたる様々な文学(著述),音楽,絵画,彫刻,建築,舞踏等の作品を多数観賞し,先人の研究業績を読み,考えるのだが,「なかなか面倒な世界だ」という感を深めるばかりだ。

しかし,ある芸術家がもし存在しなかったとしたら,その芸術家の作品が生まれなかったこともまた明らかだと考える。

ベートーヴェンの作品はベートーヴェンでなければ作曲できない。ミケランジェロの作品はミケランジェロでなければつくり出せない。

それらの作品の中には先人の作品の要素が含まれている。その意味では,確かに過去との連続性があり,模倣により導入された要素が含まれている。

しかし,それらの作品は,それらの天才のみがつくり出せるものなのだ。

私のような凡人がいくら模倣しようと思っても,そもそも模倣できない。

若い頃にマニエリスムに関して随分と勉強した。ただし,美術理論中心だった。それから何十年も経ち,その間に多種多様な無数の作品を観賞し,美学の分野を含め,芸術と関連する理論書を多数読んできた。

結論として,現代においてもなお,マニエリスムとしてとらえられているような精神現象がそのまま(または,かなり退行したかたちで)続いているのではないかというような印象をもつ。

尺八の演奏のようにも聞こえるガナッシの楽曲の渋い笛の演奏を聴きながら,何となくそのように思った。

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