スーパードライ
久しぶりに飲んだ。
あまり美味しくない。
本当に不味くなってしまったのか,それとも,加齢により味覚が劣化してしまったのか・・・よくわからない。
世間にはオンラインのものとオフラインのものを含め無数のゲームがある。
侵略型のゲーム類型は基本的な類型の1つに属する。
ある君主等を主人公として,敵国の軍を破壊し,敵国の君主を殺し,その領土を奪って自国の領土とするというパターンを基本パターンとする。囲碁と同じであり,獲得した領土が多ければ勝利となるというルールが適用されることが多い。
問題は,当該ゲームの主人公が,「どうして侵略を許されるのか?」ということに尽きる。
ある国家が侵略を受け,国防のための軍と統治組織が破壊され,君主または統治者が殺されると,民衆の生活も成立しなくなるので,実際には民衆の大部分が餓死等で死滅する。
このことは,中国の史書にも詳細に書かれていることであり,ソヴィエトロシアの時代に書かれたものではあるけれども,中国の歴代王朝の交替の際の極めて大規模な数の人口減少があったと推定されることを論証する論文が存在する。
現代と異なり,仮に何万人かの人々が殺され,または,流浪の果てに餓死したとしても記録に残されることがないのが普通なので,全ては推測によるしかない。
しかし,一般論としては,多数の人々が共存するためには安定した統治組織と生産組織が存在することが必須条件となっているので,統治組織が破壊されると自動的に大規模ジェノサイドのような状況が発生し得る。このことは,当然のことだと思われる。
ただし,中国の史書を読むと過去の君主の非道を例証するために(誇張はあるかもしれないが)大勢の人々が虐殺された旨の記述が残されていることがある。一定の事例パターンを可能な限り多数・豊富に知るためには,司馬遷の『史記』が最良の教科書であるかもしれない。
しかし,侵略型ゲームにおいて,そのような大虐殺が常に発生することを示唆するような情報提供が行われることはない。そのようなことをすれば,当然,そのゲームの利用者が減少し,収益がなくなってしまうからだ。
一般に,他国に対する侵略者は,「どうして侵略を許されるのか?」を自問することがない。当然の権利だと思っているからだ。それだけではなく,侵略し,相手国を破壊し,人々を殺戮または支配することが楽しくて仕方がないのだと想像される。そのような侵略者を支持する当該国の支配層や国民もまた同じ。
これまでの日本国の法学の領域において,そのような侵略脳(古代脳)をもつ者を,自由主義・民主主義を信じる者と完全に平等に扱うべきかどうかについて真面目に考察することは,それが危険思想と呼ばれることはあっても歓迎されることはなかった。工作員による長年月にわたる巧妙な学術操作の結果だと推定される。
以上のように,侵略を実行する者の側において,自分の行為の正当性に疑問をもつことがないということは,侵略型ゲームを楽しむ利用者でも全く同じことだ。
***
大学の「法情報学」の講義の中で,桃太郎の伝説を素材として,ストーリーの構造から何を汲み取るべきかを説明したことがある。ただし,ほぼ毎回実施してきた理解度テストのミニ感想文を読む限り,私の真意を理解できた学生はごく少数だったかもしれない。
ほぼ毎回,全ての提出物に目を通して採点している。かなり膨大な分量になるのだが,オンライン授業を実施している以上,当然やるべきことだと考えている。ただし,学生の中には,「そんなことできるはずがない」と思っている学生もあるようだ。
あくまでも一般論としては,自分の能力だけを基準として他者を評価することには常に一定の危険が伴う。特に,自分のほうが(能力的に)圧倒的に劣っている場合または未熟な場合にはそうだ。
それゆえ,日々,厳しく自戒することが求められる。
この交響曲は,ナチスドイツによるレニングラード包囲戦の中で書かれたと言われている。
ソヴィエトロシアのプロパガンダだとして批判された時代もある。しかし,明日は死ぬかもしれない包囲戦の中で,もしかすると遺作になるかもしれない作品として,自分がもつ全ての能力を注ぎ込んで作曲に没頭する以外にないという究極の状況を想像することができるとすれば,そのような批判がいかに表層的なものかを理解することができる。
実際,後には,「スターリンによって破壊され、ヒトラーによってとどめを刺された」ものとしてのレニングラードを象徴的に表し,全ての全体主義(独裁主義)によるジェノサイド行為を批判するために作曲された交響曲であるとの評価が定着した。
ベルリンの壁崩壊前の時代においては,国家を非難することは粛清(死)を意味した。それゆえ,作曲の意図を正直に述べることなどできなかった。
私自身の評価としては,現代において作曲された交響曲の中で,傑作として評価されるべき作品の1つであることは疑問の余地がないと考える。
分析結果に基づいて真似ることは可能かもしれないが,全く新たな作品として同じような作品を作曲することなど誰にもできない。
とても大きな法令の翻訳を進めており,1ヶ月以内に終えられるかどうか自信がなかったのだが,どうにか目途がたった。
今日は,仕事を切り上げ,音楽を聴くことにした。
Herreweghe指揮によるCollegium Vocale Gentの演奏,2018年3月に録音された音楽CD(OUTHERE LC 24749)を聴いた。「Made in Lithuania (EU)」と記載されているところが素晴らしい。リージョンコントロール等の問題は全くなく,私のミニコンポで全く問題なく再生できた。
Herreweghe指揮による2020年の録音がYoutube上でも公表されている。これはこれで素晴らしい。映像を見ると,全ての演奏者が極めて優れた芸術家であることを明確に見て取ることができる。
大バッハのヨハネ受難曲には名演が多く,私も幾つかのLPとCDを既にもっている。
それぞれ演奏家(特に指揮者)の理解と哲学に基づき,演奏対象とする版の選択,合奏団及び合唱団の人数等が決定される。
Herrewegheの演奏は,現代では既に当たり前のことになってしまっている最少人数編成(見解の相違により,合唱団の各パートの人数は2名または3名前後,合奏団は,第1ヴァイオリンを除き,各パート1名)を基礎とするもの。
このような少人数編成による演奏は,とんでもない名手が揃わないと実現できないのだが,それが実現でき,かつ,成功すると,スコアの細部が全部透けて見え,微妙な和声の部分が信じがたいほどに美しく響くような演奏を耳にすることになる。
このCDの演奏は,楽曲全体の解釈を含め,全面的に成功している素晴らしい演奏だと思う。
第1曲の繰り返し問いかけるような「Herr」の緊張感が尋常なものではなく,心の深いところに突き刺さる。
このCDに記録されている演奏は,歴史に残る名演の1つだろうと思う。
***
一般に,大バッハの楽曲は,真の天才の作品なので,普遍性が著しく高い。未来において,別の編成,別の楽器,別の方法によって演奏されている可能性は十分にある。それでも,きっと残ることだろう。
これに対し,残念なことではあるが,現代の浮薄な電子的な音楽の大部分は残らない可能性が高い。そもそも未来社会において満足に電気が供給されている可能性を測定することは不可能であるので,何とも言えないのだが,私見としては,現在のような電子楽器が存在している可能性は実は乏しいと思っている。
***
大バッハは,真の天才の一員なのだが,主要な作品を何度も書き直した形跡がある。
ヨハネ受難曲はその代表例の1つであり,異なる版が存在している。
天才だからこそ,真に納得できる作品の完成を目指し,何度も手直しをし,大きく書き換えるようなことをしたのだろうと思う。天才であるがゆえに自分の作品に自己満足して終わりとすることができず,しかも,手直しのための地道な努力を死ぬまで継続できたのだろうと思う。
気力と体力を維持できるという能力もまた「才能」の一部なのではないかと思う。
いろいろと事情があって,少しもクリスマスイブらしくない夜を迎えている。そもそもそのようなことを楽しむような年齢ではない。
自分自身のことはさておき,一年中何でもスーパーマーケットにおいてあるような時代となっているので,季節感というものがないのかもしれない。
どの店にいっても,骨付きのローストチキンが売れ残って山積みになっている。世間一般に,そのような食品を喜ぶ時代は過去のものとなっているのだろう。
このところの日常に従い,夕食をとった後,今晩は仕事を一切やめて,音楽CDを聴くことにした。
2010年の録音のようなのだが,ロンドンバロックの演奏による18世紀イングランドのトリオソナタ集(BIS-CD-1765)だ。
演奏それ自体は標準的なものだと思う。特に奇をてらったような部分はない。
様々な作曲家の楽曲が収録されている。
比較してみると,やはり,ヘンデルは天才の一員なのだろうと思う。優れている。
ちなみに,少し前のことなのだが,大バッハのクリスマスオラトリオを聴いた。長い曲なので,クリスマスに聴けるかどうかわからなかったからだ。
ゴットホルト・シュヴァルツ指揮による演奏(LC 48946)。
ブックレットの中にある少年合唱団のメンバーの写真に見える表情がとても素晴らしい。バッハが生きていた頃の合唱団もこのような表情で唄ったのだろうか?
演奏は,ライプチヒの聖トマス教会でライブ録音されたとても貴重なものだ。
この演奏の中では,第5カンタータの「Wo ist der neugeborene König der Juden?」が良い。
私の大好きな第2カンタータ冒頭のシンフォニアは,何度聴いても,誰の演奏を聴いても,本当に美しい曲だと思う。
大学の講義とその準備等の時間は当然として,雑用の連続で途切れた時間帯を除き,かなり気合いを入れて続けていた翻訳をとりあえず終えることができた。
まだバグ取りを終えていないので,再度検討しなければならないのだが,疲れたので来週以降に回すことにし,音楽CDを聴くことにした。
シルベストロ・ガナッシ(1492~1557年)等の曲の演奏を収録したCD(ZZT081002)を聴いた。2008年に録音された演奏のようだ。
どの曲もやや地味で,派手さは全くない。とても落ち着いた良い演奏だと思う。
***
現代の著作権と関連する海外の法令や判例法を勉強していると,様々な場面において,常に,模倣や混合の問題と直面することになる。
理屈だけではわからない。
実際に,過去500年くらいにわたる様々な文学(著述),音楽,絵画,彫刻,建築,舞踏等の作品を多数観賞し,先人の研究業績を読み,考えるのだが,「なかなか面倒な世界だ」という感を深めるばかりだ。
しかし,ある芸術家がもし存在しなかったとしたら,その芸術家の作品が生まれなかったこともまた明らかだと考える。
ベートーヴェンの作品はベートーヴェンでなければ作曲できない。ミケランジェロの作品はミケランジェロでなければつくり出せない。
それらの作品の中には先人の作品の要素が含まれている。その意味では,確かに過去との連続性があり,模倣により導入された要素が含まれている。
しかし,それらの作品は,それらの天才のみがつくり出せるものなのだ。
私のような凡人がいくら模倣しようと思っても,そもそも模倣できない。
若い頃にマニエリスムに関して随分と勉強した。ただし,美術理論中心だった。それから何十年も経ち,その間に多種多様な無数の作品を観賞し,美学の分野を含め,芸術と関連する理論書を多数読んできた。
結論として,現代においてもなお,マニエリスムとしてとらえられているような精神現象がそのまま(または,かなり退行したかたちで)続いているのではないかというような印象をもつ。
尺八の演奏のようにも聞こえるガナッシの楽曲の渋い笛の演奏を聴きながら,何となくそのように思った。
今日もかなり気合を入れて仕事をしたので疲れた。
自分の年齢をよく考え,無理はせず,続きは明日以降に回すことにし,音楽CDを聴くことにした。
グリュミオーの演奏(EJS 1059)のとても素晴らしい演奏で知っていたドヴォルザークの「我が母の教えたまいし歌」の原曲である歌曲のCDはないかと探してみたところ,ペーター・シュライヤーの独唱による安価な中古CD(32TC-212)を見つけて購入した。
しみじみと聴ける美しい曲だと思う。
疲れたので今日の仕事を中止し,明日以降にまわすことにした。
Avant before Bachという音楽CD(HMC 901703)を聴いた。
Franz Tunder,Johan Kuhnau,Nicolaus Bruhns,Christoph Graupnerのカンタータが収録されている。
驚くべき極めて秀逸な演奏であり,感銘を受ける。心が洗われるような感じがする。素晴らしいの一言に尽きる。
いずれの楽曲も録音される機会が多いとは言えないものばかりなので,その意味でも非常に貴重なCD。
大バッハ以前の世代の音楽家がどのように苦心してイタリアの先進的な音楽を移入しようとしたのか,どのようにしてそれをドイツ語による聖書の音楽として再構成しようとしたのか,そのために,血の滲むような努力をどれだけ尽くしたのかがよくわかる。
そして,ドイツ語のミサ曲やカンタータにおける作法の発展を(私のような素人でも)実感できる点では,とてもありがたい。
Graupnerの曲は,大バッハと同時代の曲であり,当時のドイツにおける音楽世界を感得できる楽曲の1つだろうと思う。大バッハのマタイ受難曲をオーケストラの一員として演奏した若い頃のことを思い出した。
事情により中断せざるを得なかった時間帯を除き,根気を要する仕事を朝からずっと続けていて,疲れた。やはり老いたのだろうと思う。若い頃であれば,このまま深夜まで仕事を続けていた。
無理はせずに仕事を中止し,音楽CDを聴くことにした。
今晩聴いているのは,ブクステフーデ(Buxtehude)の6つのソナタのCD(NAXOS 8.557250)。
ガンバが活躍する曲が多いので,きっと,当時,すごい名手がいたのだろうと想像する。
しっとりとした良い演奏だと思う。
今日も目いっぱい気合を入れて仕事をした。
疲れたので中途でやめ,続きは水曜日以降にまわすことにした。明日は講義があり,明後日は講義のミニテストの採点で一日潰れる予定。
まだ気合を入れれば仕事できるのだが,そのうち気合を入れたくても入れられなく日が必ずやってくる。人生の時間はあっという間に流れてしまう。
***
ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハのフルートソナタ集(GLOSSA GCD C80009/LC 00690)を聴いた。
フルートはMarcello Gatti,ピアノフォルテはGiovanni Togni,チェロはGiovannna Barbati。
全体として何となく気楽に聴ける曲ばかりで,中にはモーツアルトのフルート四重奏曲等と全く同じ語法による曲もあり,とても興味深かった。
ただし,曲のレベルが低いという趣旨ではない。貴重な曲ばかりだと思う。
演奏も優れている。
ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハは,大バッハとアンナ・マグダレーナとの間の第9子とされている。
録音されCD等で聴ける曲が異常に少ないので,希少なCDを比較的安価で入手できたのはとても幸運なことだと思っている。
それにしても,音楽とはあまり関係のないことなのだが,大バッハは,よくもまあこれだけ大勢の子をつくり,育て,立派な音楽家にしたものだと妙に感心してしまう。
最近のコメント