2018年1月16日 (火曜日)

夏井高人「医疾令の本草」

明治大学法学部の紀要である法律論叢に下記の論文が掲載された。

 夏井高人
 医疾令の本草
 法律論叢90巻2・3号317~369頁(2018年1月)

この論文を書くために3年ほどの時間をかけた。しかし,この程度のものしか書けなかった。自分の実力のなさを嘆く。

この論文の目次構成は,以下のとおり。

***

1 はじめに
2 医疾令施行当時に利用可能な本草書
 2.1 本草書の存在
 2.2 『本草集注』に収録されている主要な草の類
3 木簡史料との照合
4 医疾令施行当時に生きた植物として実在可能な本草
 4.1 植物種の同定
 4.2 植物種の同定からの示唆
5 正倉院保存資料の検討
 5.1 「種々薬帳」に記載された本草名
 5.2 現代における調査結果
6 考察
 6.1 薬用ではない植物
 6.2 中国からの輸入書籍の写本と推定すべき木簡
 6.2.1 木簡①について
 6.2.2 木簡②について
 6.2.3 木簡③について
 6.2.4 木簡④について
 6.2.5 木簡⑤について
 6.3 荷札と推定される木簡の評価
7 まとめに代えて-検討結果による示唆

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増田知子・佐野智也「近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究(1)」

佐野智也先生から論文の抜き刷りを頂戴した。とても勉強になった。

 増田知子・佐野智也
 近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究(1)
 名古屋大学法政論集275号1~43頁(2017年12月)

非常に興味深い内容で,丁寧によく研究されていると思う。

私の学問上の関心事とも深い関係のある部分を含んでおり,過日,佐野先生と直接にお会いしたときに話題に出たことなので,送ってくださったのだろうと想像する。

続編が大いに期待される。

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2018年1月12日 (金曜日)

亀本洋『ドゥオーキン「資源の平等」を真剣に読む』

亀本洋先生から下記の書籍を頂戴した。

 亀本洋
 『ドゥオーキン「資源の平等」を真剣に読む』
 成文堂 (2016/11/20)
 ISBN-13: 978-4792306014

「真剣に勉強しなさい」との御趣旨と理解し,真剣に読んでみた。

文章は平易で,非常にわかりやすい。

たまたま翻訳中のEUの機関の意見書の内容と深い関連のある事項が述べられていたので,とても勉強になった。

ハイエクの原書はもっておらず,全集(訳本)の中の数冊をもっているだけなのだが,この『ドゥオーキン「資源の平等」を真剣に読む』を読んでみて,「こりゃ原書を読まなあかんな・・・」という気になったので,読んでみることにする。

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Eurofound, Long-term unemployed youth: Characteristics and policy responses

下記の報告書が出ていたので読んだ。

 Eurofound, Long-term unemployed youth: Characteristics and policy responses
 https://www.eurofound.europa.eu/sites/default/files/ef_publication/field_ef_document/
ef1729en.pdf

一般論として,「高学歴=高収入」という図式は既に崩壊している。

かつては,「高学歴=高収入」という図式が成立していた。それは,かつての大学においては,相当の資産家の子弟であるか,または,相当に優秀な者でなければ大学に進学できなかったからだ。ここでいう「相当に優秀な者」とは,遊んでいても常に成績トップのような者,あるいは,予備校や家庭教師等一切なしで独力でどんな学問でもすぐに修得してしまうような者のことを指す。つまり,当時においては,もともと成功する可能性の高い素地をもっている者が主として大学に進学したと言える。

しかし,その後,大学の進学率が大幅に高くなった。その結果,普通の学生が大量に大学に進学するようになった。そして,その結果として,大学卒業生の多くは,普通の仕事に就くことになった。

それが良いことであるか悪いことであるかは,後世の歴史家が考えるべきことだろう。

しかし,実際には普通の学生に過ぎないのに観念だけ過剰に注入され,しかも,学生の間に良い師と巡り合うことができず,シビアな社会の中で生き抜くための基本的な考え方や自己訓練方法のようなものを伝授してもらえなかった学生は,大学を卒業しても,途方に暮れることになる。なにしろ,現実の社会の中には「正解」というものがない。正解や解法を暗記してそれを口で述べるだけで済むようなものでは全くない。これは,大学受験までの予備校等の授業方法とは全く異なるものだ。

世界規模でそのようなことが拡大しているのだろうと思う。

しかも,ロボットやAIの導入促進は,普通の学生が就くべき仕事(職業)をどんどん消滅させてしまっている。これが元に戻ることはない。

世界規模で,非常に大きな転換点にさしかかっているのだと思う。

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2017年12月20日 (水曜日)

Daniel Ruecker & Tobias Kugler (Eds.), New European General Data Protection Regulation: A Practitioner's Guide

予約していた下記の書籍が届いたので,ざっと読んだ。2018年1月に刊行予定だったものが前倒しで刊行されたもののようだ。

 Daniel Ruecker & Tobias Kugler (Eds.)
 New European General Data Protection Regulation: A Practitioner's Guide
 Hart Publishing (2018)
 ISBN-13: 978-1509920600

GDPRにはこれまで公開されているEUのどの公式文書を読んでもよくわからない箇所が幾つかあり,検討を続けていたのだが,本書にはそういう箇所の説明が丁寧になされている。たぶん欧州の人々にとっても,また,世界各国の人々にとってもわかりにくい箇所だったのだろうと思う。

概説書としての有用性は高いと評価する。

よく読んで考えた上で,必要な修正等を加え,2018年5月25日の適用(施行)の日までにGDPR参考訳の確定版を作成したいと考えている。

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2017年12月14日 (木曜日)

亀本洋『法哲学』

下記の書籍を読んだ。特に第7章の論述は,非常に興味深く読んだ。

 亀本洋『法哲学』
 成文堂(2011年6月30日)
 ISBN-13: 978-4792305154

私の不勉強・怠惰のゆえに,亀本先生が明治大学の専任教授として赴任されるまでは,亀本先生の著作を真面目にちゃんと読んでいなかったことを大いに恥じる。

本書についてはまだ本文と脚注の文を読んだだけなので,これから,本書中で引用・参照されている文献(特に巻末にまとめられている参考文献)と格闘しようと思う。そのような参照・引用文献の中の約半分は既に既に(ななめ読みで)読んだことのあるものなのだが,そのようなものについても,再度真面目に読んでみたいと思う。

[追記:2018年1月16日]

昨日,某先生から,元学生の某氏が「学生時代に挑戦したけれども挫折していたけれども,夏井教授が読んだというので再挑戦することにした」との趣旨のことを言っていたと伝え聞いた。正確性はわからないが,そのようなことがあったのだろう。

私は,「無理だ」と即答した。それは,十分な知識の蓄積がないと読めない書籍だからだ。少なくとも,参照・引用されている書籍・文献の中の主要部分を既に読み終えた段階でないと,この本をちゃんと理解できない。

また,亀本先生独特のレトリックがあるので,ある程度の人生経験を履んだ上でないと,それがレトリックの一種であることに気づくことができない。

しかし,いずれは読破するだけの実力をつけることが望ましい。

私は,個人的には,高校段階で,田中成明ほか編『法思想史』(有斐閣)または質的にこれと均等な書籍を読破し,十分に理解することが望ましいと考えている。そして,そこに示されている代表的な書籍の原書を丁寧に読んで理解するという努力を積み重ねることが大事だ。

私自身が高校生~大学生の頃にはそのような本が存在しなかったので,岩波文庫の関連分野の翻訳本をほぼ全部網羅的に読破することによって問題を解決した。現時点では,どうにかそれぞれの訳本の原書を読めるようになってきたので,岩波文庫の訳の中に相当怪しいものが多数あると認識・理解できているが,しかし,怪しくても何でも,とにかく読書の分量をかせぐ時期を経由しないと,質的な成長はない。

また,読書の分量をこなすことによって,読書の速度を異常に加速させることが可能であることを実感できる。

なぜなら,世の中の大半の書籍の構成要素の大部分は先人の業績のコピペ(受け売り)のようなもので成り立っているからだ。本当にオリジナルのものは,相当に有能な人,または,誠実に努力を積み重ねた人にしか書けない。

そうであるので,十分な理解を得た書籍の数が増えれば増えるほど,数ページ~数十ページの単位で,場合によっては,目次をざっと見ただけで,「これも基本的には同じことを述べているコピペのようなものだ」と即座に判断できるようになるからだ。

世に秀才は数えきれないほど多数存在しているが,単なる秀才は,上手にコピペすることは可能であっても,クリエイションする能力をもたない。

少なくとも内外の5000冊以上の書籍を精読・読破してみれば,そのような心境を得ることができる。

自己の脳の変革のためには,それなりに丁寧に土壌を耕すという作業が先行しなければならない。種をまくのは,それからのことである。

私が亀本先生の書籍や論文を評価しているのは,そこらへんのことをきちんと明確に峻別し,先行文獻を超精密に読みこなした上で,ちゃんとオリジナルなことを(ただし,独特のレトリックを用いて)書いておられるからだ。非常に優れた法学教授だと思う。

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2017年12月 7日 (木曜日)

王敏『禹王と日本人-「治水神」がつなぐ東アジア』

以前読んだ下記の書籍を改めて読んでみた。

 王敏
 禹王と日本人-「治水神」がつなぐ東アジア
 NHK出版(2014年12月20日)
 ISBN-13: 978-4140912263

本書は,現在まで続くその文化の諸相をアジアの関連文化と比較して紹介するもので一般向けの書籍としては成功しているのではないかと思う。

ただ,私自身の性格にもよるのかもしれないが,古代(特に漢帝国よりも前の時代)の中国における「禹」の概念及びその社会的機能を精密に分析した後でなければ,単純な比較をすることに疑問を感ずることがある。日本の江戸時代における漢籍の研究は世界的にみてもすさまじいレベルに達しており,そのおかげで,中国では既に滅失してしまった中国の古い書籍の写本や版本等の類の多くが日本国内に残存している。そして,江戸時代当時の漢学者の影響を受けて,(古代ではなく)その当時に成立した文化のようなものがあたかも古代から存在するかのような顔をして現在まで至っていることがあり得る。東南アジア諸国の文化にしても同じで,比較的新しい時代(特に清朝以降)における華僑等の中国人グループの大規模な地理的移動に伴って成立したものがそのまま現在まで存続していることがあり得る。

そんなことなどを考えた。

(余談)

日本の文化の基底に中国古代の精神文化が溶け込んでいることは事実であり,否定する材料は何もない。その文化は,紀元前から紀元後まで継続的または断続的に日本列島に流入されて累積的に形成されてきたもので,それ以前の単なる農耕が神事と関連付けて計画性をもったもののへと変容する重要な役割を担ったものではないかと思う。その伝播のルートは,中国大陸(特に山東半島以南)を想定するのが妥当であり,治水神との関連性が強い水耕栽培に適さない朝鮮半島経路を基本的に除外して考えるのが妥当ではないかと思う。近年の考古学の成果もそのことを裏付けている。

倭国(日本国)において鉄器が主流となる契機については,漢帝国成立後の楽浪郡系の影響や三国時代(特に魏)~南北朝時代における別の移動の結果として生じたと推定されるものを含め,「禹」を祀る人々(主として,方形周溝墓を尊重する漢人系の集団)の子孫は,その後,何らかの政治的な理由により「禹」ではなく「兎」を祀る人々として外見を装うように変質し,現在に至っているものと推定することは,可能の範囲内にあると考えられる。古代における「国神」なるもの本質について,特定の政治的イデオロギー等の先入観を全て取り払った上での徹底的な再検証が必要なのではないかと思われる。

これら,「禹」を祀る人々が支配階級として関東地方以北を除く地域(特に九州~畿内)において主要な勢力を確保していた時代は,倭國における青銅器を主要な祭器とする時代に相当するのではないかと思われる。銅器に示される紋様の中には,中国の古い書籍に示されているような思想を反映するものとして解釈すると妥当な解釈を得ることのできるものがあり,特に,饕餮(とうてつ)と推定されるものはそうである。これらは,古代の江南(かつての楚の地)から直接に到来したものではないかと考えられる。

なお,古代の世界における精神構造と政治構造・社会構造は,現代におけるものとは全く異なる。19世紀以降に西欧において成立した「国家」の観念をそのまま投影して考察するようなことは,それ自体として荒唐無稽なことである。

例えば,秦帝国成立以降におけるいわゆる中華思想の根源には,個人である皇帝が全ての財と人民を私有し支配するという精神構造が存在するように思われる。中国に限らず,君主制とは,基本的にそのようなものである。しかし,軍事攻略を無限に続けると国家財政が破綻してしまうことをどの時代のどの大国の官僚団も熟知していたので,周辺諸国との間で大義名分さえたてば休戦状態を成立させるという和睦的な外国術が発達した。古代ローマ帝国における「ゲルマン人(ゲーの人々またはケーの人々)」との間の休戦と長城のような物理施設の構築による境界線の明確化,古代中国におけるより洗練された冊封戦略のようなものは,そのようなものとして理解され直す必要があると思われる。それらを考察する場合に必要な考慮は,国力の持続可能性である。攻略・支配・管理のためには,それなりの財政力が存在しなければならないことは,春秋戦国時代以来,古代中国の様々な書籍の中でも明確に論じられてきたことである。

(余談2)

古代の中国大陸や東南アジア~フィリピン~台湾との海上交通に関しては,「古代においてそんな海上交通手段が存在したはずがない」との極めて愚かな反論が常に行われる。

非常に古い時代から大型の構造物を製造する技術が存在した可能性は肯定されるべきである。そうでなければ,メソポタミアとインダス川流域との間の大量の物品の移動を説明することができない。

また,大型建築物についても,農耕と文字文化が発展するよりもずっと前の時代からその技術が存在したということが近年の考古学の成果により明らかにされている。例えば,ギョベクリ・テペ遺跡(トルコ・アナトリア)がその例である。この地は,古代の粘土版に記された神話の中にある「神々が地上に降りて土から人をつくった」とされる地域推定地に近い。この遺跡の構造物には,有名なストーンヘンジや日本国内にも残されているストーンサークル等との共通性を感じさせる部分(要素)が多々ある。ヘロドトスが書き残しているスキタイの円墳状の大型墳墓の基本思想との関係についても同じである。

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法と情報雑誌2巻の正誤

法と情報雑誌の誤記等の正誤を改訂した。今後も,随時改訂する予定。正誤表は,下記のサイトの下のほうにある。

 http://cyberlaw.la.coocan.jp/index2.html

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2017年12月 5日 (火曜日)

大正天皇実録

昭和天皇の実録が公刊され話題となっているが,大正天皇以前の天皇の実録もあると知り,ちょっと調べてみた。

大正天皇の実録は,確かに公刊されている。

 大正天皇実録 補訂版 全六巻・別巻一
 ゆまに書房
 ISBN 978-4-8433-5038-6 C3321
 http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843350386

ちょっとだけ読んでみた。

歴史学者は無論のこと,歴史小説家も,その全文を精読し,理解してから考察し,ものを書かないと恥をかくことになるのではないかと思う。

ちなみに,個人情報保護云々を気にする見解もあるようだが,個人情報保護法が直接に適用されることはあり得ない。EUの関連法令においても,歴史学上の調査研究の目的による場合には,個人データ保護法令の適用除外となっている。

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翻訳的コピペ

法学に限らず,様々な分野において,外国で出版された著作物を日本語に訳し,一部修正しただけのようなものを自著として出版する例が多々見られる。

そのようなものは,著作権法に定める翻訳権及び翻案権の侵害になり得ることが明白であり,説明を要しない。

法学の分野の中では比較法関連の著作の中にしばしばみられるとの見解もある。

私自身は,翻訳は翻訳であるので,「論文」ではなく(法と情報雑誌等の中で)「資料」として公表することにしており,その原文の出典について可能な限り明確に表示し,かつ,オープンデータのように二次利用が認められているものについてはその利用条件に従い,オープンデータではないものに関しては関係各機関または著者自身から許諾を受けた上で翻訳をしている。場合によってはひどく手間がかかることがあるけれども,後になって,翻訳権等に関するいかなる批判にも耐えられるような(バイデザイン及びバイデフォルトの)手配だけはしておくべきだとの考えに基づく。

私がこれまで様々な資料を調べた中では,超有名大学の法学博士論文の中にもそのような例がみられる。しかも,まだ若くて世間をよく知らない大学院生ではなく,非常に著名な学者の代表論文とされているようなものの中にも存在することに驚く。これ以上詳しく批判するとその者が特定されてしまうのでやめておくが,当該超有名大学は,当該教授(または元教授)が関与している関連学会を含め,いったん自主解散し,リセットしてしまわないと根源的な病根を断つことができないのではないかと思う。

明治時代以来の大学という組織のあり方それ自体が,根本的なところで問われていると考える。それと同時に,自分自身が考えたこととそうでないものとを明確に峻別し,それを明示することができないような反社会的な人々を大学から排除しなければならない時が迫ってきているとも言える。

自浄できないのであれば,後に,海外の大きな権利管理団体やローファームの餌食となる可能性がある。特に国立・公立の大学の場合,損害賠償請求の勝訴判決に基づく差押えの源資が必ず確保されるといううまみのようなものがあることにも留意しなければならない。

このことは図書館も無関係ではない。外国の他人の著作物の単なる翻訳物または翻案物に過ぎないものであるのに日本国の学者による自著として刊行されているような書籍は,違法な書籍であるので,少なくとも書架からは除却する準備を進める必要がある。

私が批判すると否とを問わず,急速かつ高度に進化しつつある情報技術は,そのようなまがいもの論文を自動的に検出し,自動的に解析し,自動的に評価した上で,まがいもの作者ブラックリストを自動生成することが可能なレベルにまで達しつつある。このブラックリストは,近未来の著作権管理団体やそれと提携しているファームにとって,損害賠償請求訴訟による収入を得るための貴重な情報源となることであろう。

仮に私が突然死んでしまい批判することがなくなったとしても,そのような技術の進化が止まることはない。

(余談)

法学論文の中で,例えば,「***に関する考察-AAAの『BBB』を中心として-」というようなものを見つけることができることがある。

そのような論文の中には非常に優れたものもある。

しかし,内容的にみて,AAA作の『BBB』の紹介だけに終始し,著者自身の「考察」と評価可能な部分がただの1行も含まれていないようなものが存在することも事実だ。

他の研究者の思索や著作を尊重すべきことは当然のことだ。しかし,それを素材としながら自己の思索を深め,その結果を公表するのが学術論文の使命なので,自己の思索を全く含まないようなものは,とても恥ずかしい。

それを恥ずかしいと感じないようであれば,そのことのみによっても,「学者としては失格だ」と評価することができる。

もし翻訳する能力しかもっておらず,自己固有の思索の能力はもちあわせていないというのであれば,学者をやめて翻訳家の下請業に転職すれば良い。日本国憲法は,職業選択の自由を認めているので,転職は自由だ。しかし,学問し,その結果を公表すべきことを債務の本旨とするような大学との間の雇用契約に基づく場合,その債務を信義誠実の原則に基づいて履行できないのであれば,それは,単なる債務不履行の一種に過ぎないので,雇用契約の解除原因となり得る。なお,本当は,翻訳業の世界においても,必死になって関連知識を収集し,考察し続けるのでなければ1流としての座を維持することができない。それゆえ,何ら努力することなく,単に機械的に翻訳するだけならば,その者は翻訳家の下請業の域を出ることができない。そして,そのような単純で機械的な業務は,近未来においては,情報処理システムによって取って代わられる可能性がある。

一般に,学術論文のような表現物のことを「作品(works)」と呼ぶ。それは,作品でなければならないし,まさに「work」の結果でなければならない。その「work」とは,当該作品の作者による創作によるものであることを要するから,単なるコピペまたはそれに類するものを含まない。

一般に,他人の作品の翻訳物または翻案物に過ぎないものを自己のオリジナルの作品として公表する剽窃行為は,大学教授としての著しい非行行為と判断され,当該大学の人事権に基づく懲戒解雇を免れない場合が多い。

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