2019年6月 8日 (土曜日)

大島眞一編『司法試験トップ合格者らが伝えておきたい勉強法と体験記』

出版社から下記の書籍の寄贈を受けたので,早速読んでみた。

  大島眞一編
  司法試験トップ合格者らが伝えておきたい勉強法と体験記
  新日本法規出版 (2018/7/12)
  ISBN-13: 978-4788284463

複数の執筆者による書籍であり,各人各様の体験談と所感が述べられている。

無論,賛成できる部分と賛成できない部分とがある。しかし,このような書籍は,必要な書籍だと思う。

一般論としては,法律家の仕事は,理論法律家であれ,実務法曹であれ,非常に個性的な仕事だと思う。

裁判官にあっては,どんなことがあっても屈しない独立性を維持するための精神的な頑健性と頭脳の柔軟性の両方が求められるので,自動的に個性的になる。

弁護士にあっては,類型を同じくする事件であっても当事者と事案によって実質的な内容が千差万別であることが多いので,ステレオタイプのような弁護士では仕事にならない。

検察官にあっては,事案に即して公訴事実を構成し,適切に証拠を取捨選択する能力が求められるだけではなく,刑事訴訟以外の多種多様な法務に従事することもしばしばあるので,かなり柔軟な思考能力と知識の吸収能力が求めらる。

法学者にあっては,「従来の通説を全て粉砕して過去のものとしてしまう!」くらいの強靭な意気込みがなければ,まともな論文など書けるはずがない。

そして,それぞれの法律家には各人各様の世界観というものがある。

それゆえ,まともな法律家である限り,最初から最後まで個性的であることが求められるし,意識しなくても自然とそのようになる。

その結果,この分野に関する限り,画一的な教育は,常に成立しない。

私の場合,学生の意欲,資質,能力,志望等の要素を丁寧に観察した上で,それぞれの学生の個性に即した法学教育をめざしており,画一的な授業をやってみてもほぼ無意味だと理解している。

特に,各人の勉強方法は,各人が自身で身につけるべきものであり,教育によって最適解のようなものを教えることができない。仮に最適解もどきのようなものを暗記または訓練により習得させてみたところで,同じ教育を受けた者は,(少なくとも外形上では)全員同じことができるようになるかもしれず,それでは同業他者との差別化などできるはずがないので,人生において必敗の方法論を学んでいるのと同じことになる。

世界観や倫理観等に関しては,そもそもそれが固定的なものではなく,時代や環境の変化や相違によって顕著に異なるものであるし,日本国憲法によって保障された各人の思想信条の自由に属するものであるので,強制することが許されない。知識や技能を習得するための訓練と倫理観または思想の強制とは全く別のものである。

そのような観点から,本書の感想に戻ると,執筆者各位が比較的正直に意見を述べているように思われ,しかも,「自分自身の方法論をつかむ」ことを重視していることには心強いことだと思った。

私自身は,既に引退同様になっていることはさておくとしても,自分自身の気持ちの問題としては,どこかの誰かのように権力や名誉や地位を求めるようなタイプの老醜を晒そうとは思わない。

若い世代に大いに期待したいと思う。

 

 

 

 

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2019年6月 7日 (金曜日)

米国:ロースクールの衰退傾向の中でのルイジアナ州の別の選択

下記の記事が出ている。

 Do We Need Another Law School? Some Louisianans Think So.
 law.com: June 5, 2019
 https://www.law.com/2019/06/05/do-we-need-another-law-school-some-louisianans-think-so/

米国の州は,日本国の都道府県とは全く異なり,独立の権限を多数もっている。そのあたりが日本では実現不可能なことでも実現してしまう動因として存在していると考えられる。日本国のように,律令時代以来の中央集権的一元的国家体制の下では,その真似をしても必ず失敗するので真似しないほうがよいが,考察のための素材としては大いに参考にすべきだろう。

それはさておき,職業人としての法曹の需要は,ごく普通の経済原理(需要と供給)によって自動的に定まる。

しかし,そこで考えなければならないことは,そこでいう「需要」とは何のことを指すかという点だ。

そして,需要が高いか低いかとは無関係に,生き残る者は生き残るし,そうでない者はそうではない。

その差は,個々の者の固有の能力によるものであり,基本的には教育制度とは全く無関係のことだということにいち早く気づくことが生き残りのための最善の道であることも否定できない。

その意味で,長い目でみた場合,学歴(学位)や肩書は,実務の世界ではほぼ無意味である。そのことを知らずに形式的な基準だけで人事等を決定する組織(企業等を含む。)は,必ず衰滅する。

ただし,他人の何倍もの仕事を平気でこなすためには,それなりの十分な体力と集中力も必要なので,その点を無視して知能だけに頼ると,かなり悲惨な結果を招くことがあることには十分に留意しなければならない。

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2019年5月25日 (土曜日)

倫理研修と抑止力と費用対効果

日本国内で現実に実施されている「倫理研修」に(統計上有意な)抑止力及び改善効果があることを示す証拠は一切存在しない。

なにしろ,それらの研修は,事前の影響評価を一切やらないで導入されている仕組みであることが多いので,統計のとりようもない。無論,事後的な見直しが行われることもない。

費用対効果の面で考えると,倫理研修という方法にはかなり大きなGDP減殺効果があることは,容易に証明可能と思われる。

だから,原則としてやめてしまったほうが良い。

このような批判を担当者に対して直接に向けたことが過去に何度もあったが,意味のある回答が可能だった者はだれ一人いなかった。

要するに,何もわからずに,単に惰性だけでやっているのだ。

その間,世界の状況はどんどん変わってきてしまっている。

少なくとも自由主義諸国においては「倫理の強制はできない」という観念が既に定着しており,「倫理研修」という名の研修は存在してはならないのだが,日本国では倫理の強制が日常的に行われているという嘆かわしい状況にある。しかし,文部科学省を含め,国家機関が個人の内心の自由の自由または精神的な自由の一部である「倫理」に介入することは,日本国憲法に定める公務員の憲法遵守義務違反行為であり,憲法違反行為となる。国家は,違法行為との客観的な結果に対して法的制裁を加えることはできるが,内心の自由に干渉することは許されない。

現在の世界の趨勢は,内心の行動規範の一種としての「倫理」ではなく,合理主義と費用対効果に重点を置くものとなっている。近未来において,人工知能による自動判定が普通になると,基本的には合理主義と費用対効果だけで判断結果が示されることになるだろう。

非違行為が現実に行われた場合には,応報的な対応だけで十分に足りるし,そのほうが社会全体に対するストレス度も低い。

教育刑論的な押し付けがましい発想は捨象してしまうべきである。そもそも,社会の構成員の半分以上が老人だというのに,頑迷な老人に対して「教育」とは笑止という以外にない。このような理論は,その実用性の社会・経済的基礎を既に失ってしまっているので,忘れ去られるべきである。

しかしながら,現実には誰もまともに考えようとしない。単なる「ことなかれ主義者」だけで社会が構成されるようになってしまっているので,このままでは,日本国は,非常に近い将来,滅びることになるのだろう。

 

 

 

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2019年5月22日 (水曜日)

ある宅配便の受取り

宅配便により,ある荷物が届いた。その荷物それ自体には何も問題がない。

通常,それを受け取るためにはサインまたは押印を要する。

ところが,今回は,スマートフォンの画面上を指でなぞって署名することを求められた。

当然のことながらきっぱりと拒否したところ,「それならハンコで良いです」というので,押印してその荷物を受領した。ハンコで良いのであれば,最初にそう言ったほうがお互いに嫌な思いをしなくても済むことが明らかなので,この会社の経営方針は根本から間違っていると言える。少なくとも,その会社は,本日,現実に,優良顧客を1人失った。今後は,同業他社及びゆうパックだけにしようと思う。

ところで,このような仕組みの詳細はよくわからない。指から出る静電気を含め,生体データを一切処理していないのかもしれない。しかし,あくまでも理論上の問題としては,自動的に指紋または静電気の特性(生体データ)を収集し記録する機能が伴っている可能性が高い。

それゆえ,顧客に対し,事前に,かつ,直接に(面前で),わかりやすく説明し,加えて,代替手段があるときにはその代替手段を説明し,かつ,代替手段がないときには「なぜ代替手段がないのか」を顧客が完全に納得するまで説明した上で,その顧客の紛れのない同意を得てからでなければ,このような仕組みを使用すべきではない。

このような仕組みが現行の個人情報保護法に違反するか否かは別として,事前の説明なく,かつ,同意なく,他の代替手段がいくらでもあるのに,生体データを収集する行為は,明らかにGDPRの関連条項に反することになるので,今後,日本国とEUとの間の十分性の決定(判定)が取消される非常に深刻なリスク要素がそこに存在していることになる。

日本国の個人情報保護委員会は,上記のような生体データの取得の有無及び当該業界における実情を徹底的に調査した上で,もしその仕組みが生体データを獲得することなしには機能しない仕組みであるのであれば,直ちにそれを全部廃棄させ,二度と使用させないようにするため,最も厳しいレベルの行政指導をすべきである。

このことは,消費者庁及び公正取引委員会に関しても全く同じである。

***

指で画面にサインしなければ荷物を受け取れないのであれば,荷物を受け取らないことを選択すべきである。

それによって当該会社の業績が悪化することがあったとしても,それは,顧客の権利を無視または軽視したによる自業自得のようなものなので,全くもって同情には値しない。そのような強要が現実に行われる場合,そのような経営方針それ自体が根本から間違っているので,いわゆる風評被害なるものも成立する余地が全くない。

なお,荷物の受取りと引き換えに生体データの提供を強いる行為は,刑法上の強要罪に該当し得る。

 

 

 

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2019年5月 4日 (土曜日)

挨拶

ネット上で挨拶に関して話題になっているようなのでちょっと読んでみた。

私にも心覚えがある。

道を歩いていてすれ違った知人から声をかけられたのに,気づかなかったのだ。

申し訳ないとは思うのだが,自分の都合を優先したい。

私はあと何年生きていられるかわからない。

1秒でも無題にしたくない。

だから,歩いていても常に何か考えている。

他には注意を向けない。

そういう劣化した爺さんだと思ってもらうしかないのではないかと思う。

ちなみに,挨拶をしても何らかの応答がないのはむしろ普通のことなので,それを期待するのは間違っていると思う。

一般に,自分が思うほど他人は自分のことに注目していないものだ。

・・・なので,「無視される」をデフォルトにして生きれば,そんなに悩むこともないのではないかと思う。

 

 

 

 

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2019年4月28日 (日曜日)

Autonomous

Auto+nomosの合成語であるとされている。

意味的には,他からの干渉を受けることなく独立して判断する存在のことを指す。

他からの干渉を受けないということは,人間の干渉も受けないということを意味する。

例えば,人間は,野生動物を殺傷することは可能であるけれども,彼らの判断それ自体に干渉することはできないので,野生動物もAutonomousの一種である。

ところで,完全に自律型のロボットもAutonomousの一種である。

現行のISOの定義による産業用ロボット(Robotics)は,人間が管理・制御可能な対象であることを当然の前提としているので,Autonomousではない。

もし,何らかの人工生成物(機械装置,人工生命体,サイボーグ,アンドロイド等)が完全に自律的であるという場合,それらは,人間の管理・制御不可能な存在でなければ,概念矛盾となる。

この場合における「管理・制御」の手段には「法」も含まれるので,完全なAutonomousである人間以外の対象に対しては,人間の社会における法による統治または法治主義の適用可能性も客観的に存在しない。

以上から,あくまでも論理的には,完全に自律的なロボットは,人間の干渉(管理・制御)を受け付けない存在であるがゆえに,いわゆるロボット法の分野において「人間の関与の確保」を考究することは全く無意味なことである。

そうではなく,人間が管理・制御できない対象に対して,人間が劣勢となり,それらによって滅ぼされないようにするためにはどうすべきかを考えるのがロボット学の本体的な部分でなければならない。

人間が管理・制御可能な対象であることを前提とする限り,いわゆる「ロボット法」は,学術的には,全く無価値である。

[追記:2019年4月29日]

日本国の多数の学術団体等を現在でも支配しているのは政治的イデオロギーとしての唯物史観の人々である。

一般に,唯物史観の論者は,いわゆる「ロボット法」の研究においても「人間が支配可能」という観念を捨てることができない。それを捨てると,「唯物史観において人類社会の完成形態とされている共産主義社会が到来する前にロボットによる社会が完成してしまい,共産主義社会が永久に到来しないということがあり得る」という論理を認めることになり,唯物史観の論理それ自体を完全に自己否定せざるを得なくなるからだ。

それゆえ,このことは,当該業界に通じていない人が「誰が唯物史観の持ち主であるか」を知るためのリトマス紙の役割を果たすことがある。

私自身は,唯物史観が誤りであると考えているし,多数の論文を通じてそのような論証を重ねてきた。過去の政治学基礎理論の中で正しいのは「実力説」及び「国庫説」のみである。

ロボットまたは産業用ロボットの構築に関しても積極的ではないし,賛成もしていない。

しかし,日本国の国富の増加のためにどうしても必要だというのであれば,日本国の産業界及び政府関連官庁は,(理論的には人間が管理・制御不可能なものである)「完全に自律的なロボット」の構築をめざすのではなく,あくまでも,(人間によって設計された基本的な枠組みの中でのみ動作する)「産業用ロボット」の構築だけを目指すべきであるし,そのように宣言すべきである。

そのような宣言は,産業界だけではなく,唯物史観の人々にとっても受入れ可能なものであろう。

 

 

 

 

 

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2019年4月 1日 (月曜日)

太平御覽:人事部一百三十三

「齊書曰 江謐 字令和 濟陽考城人也 為長沙內史 行湘州事 政治苛刻 僧道人與謐情款 隨蒞郡 犯小事 餓系獄 裂二衣食之」とある。

なお、全唐詩卷二百七十三・和汴州李相公勉人日喜春は以下のとおり。作者は戴叔倫(732年~789年)とされ、日本国では天平の頃の人である。

 年來日日春光好 今日春光好更新
 獨獻菜羹憐應節 遍傳金勝喜逢人
 煙添柳色看猶淺 鳥踏梅花落已頻
 東合此時聞一曲 翻令和者不勝春

また、唐の玄宗李隆基作とされる春日出苑遊矚は以下のとおり。

 三陽麗景早芳辰 四序佳園物候新
 梅花百樹障去路 垂柳千條暗回津
 鳥飛直為驚風葉 魚沒都由怯岸人
 惟願聖主南山壽 何愁不賞萬年春

当時における文芸のテンプレートのようなものであり、万葉集の梅花の歌もそれにならうものと思われる。

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2019年3月28日 (木曜日)

公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団編『古墳人、現る-金井東裏遺跡の奇跡』

荷物が届いているはずの時刻(午前11時頃)に届いていなかったので,三省堂本店まで出かけてぶらぶらしていたら,下記の書籍が刊行されているのを見付け,早速読んだ。非常にわかりやすく,写真も鮮明で,2時間ほどで精読できた。

 公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団編
 古墳人、現る-金井東裏遺跡の奇跡
 上毛新聞社出版部 (2019年3月28日)
 ISBN-13: 978-4863522312

良い本だと思う。これ以上詳しいものを読みたければ専門家向けの正規報告書を読むしかない。

何度か書いてきたとおりなのだが,日本国の古代史は根本的なところで全部書き換えられるべきだと思う。特に唯物史観は良くない。

ちなみに,当の荷物は16:00頃に到着した。やれやれという感じなのだが,転勤や異動の季節なので混んでいたのだろう。

 

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2019年3月26日 (火曜日)

pacta sunt servanda

「pacta sunt servanda」は、ローマ法の格言の1つであり、法理論の基礎をなすものである。日本国の大学法学部においては基本的な概念として必ず習得しなければならない概念の1つであり、それを修得していない者は法学を学んだとは全く認められない。


この概念は、政治学における契約説を採用する場合においても重要である。とりわけ、EUは、諸条約により、政治学上の契約説を必須の前提として統治組織と統治の基本原理を定めており、それらがEUの基盤理念、すなわち、「共通の価値観」を構成している。逆から言えば、「pacta sunt servanda」を知らない国、または、それを無視する国は、EUと基本的な価値観を共有できない国であることになる。


このことは、アメリカ合衆国においても基本的には同じである。アメリカ合衆国の独立宣言及び憲法は、そのことを明確に示している。これらの事項は、日本国の法学部または政治学部においては基本的な概念として必ず習得しなければならないものの1つであり、それを修得していない者は法学または政治学を学んだとは全く認められない。


かつて、上記のような意味における共通の価値観を共有できない国または人々のことを西欧人は「蛮族」と呼んだ。とりわけ、約束または契約の拘束力を知らない人々は、「蛮族」として扱われた。


では、日本国は、明治維新の折、どうして「蛮族」として扱われることを免れることができたのであろうか。


それは、仮に内容的に不条理なものであっても国際的な約束を遵守し、債務があれば、自助努力によってその債務を完済したからにほかならない。そして、そのようなことに精励できた精神的背景としては、「決まったことは決まったことだ」と認識して受容する精神的風土が存在していたからだと考える。


そのような精神的風土は、江戸時代以降の朱子学の影響としても理解可能かもしれないが、少なくとも『古事記』や『日本書紀』や『続日本紀』を読む限り、遅くとも律令制が確立された時代にはそのような観念がかなり広範に存在していたと考える。それが成立した背景事情に関しては諸説あり得るであろう。私見としては、朝廷の軍事組織による攻略と屯田という歴史が存在したからそうなったのだと考えている。


極めて繁忙な仕事の合間に、長い年月をかけ、全国各地の遺跡(特に古墳)を実際に見て回り、その遺跡発掘記録や調査報告書の類を精読してきた。もしかすると例外が存在するかもしれないが、大型古墳からは、(遺物が残存しているときは)必ず、太刀(直刀)等の刀剣類、兜、冑、弓矢等の武器・防具、馬具、支配地(屯田)の耕作に使用したと推定される農具、そして、(残存しているときは)男性の遺骨等が発掘されている。それらは、細部の相違はあるかもしれないが、基本的には、ほぼ同じ時代のものについては類似点の多い(または、全く同じ)特徴をもっている。非常に身分の高い者のものと推定される古墳から出土する極めて高価な素材を用いた装飾品の例は結構多数あるが、そのようなものを除くと、一般的には、現代では司令官クラスまたは部隊長クラスに相当する武人の墓であると推定すべきものが圧倒的に多い。これらは、土着の豪族が成長し、武器・防具等を朝廷から下賜されたものと推定するよりは、征服者である武人が駐屯(屯田)し、その地の征服後の初代の支配者となった証として保有していた(または、子孫に伝承された)ものと推定するほうが合理的である。つまり、遅くとも歴史時代の日本国(倭国)は、最初から武家社会として存在していたと考えるのが正しい。神武天皇の事績に関する神話は、そのことを象徴化するものであると言える。神武天皇の事績は、武力により征服し、征服地の統治を確立したということに尽きる。『常陸國風土記』にあるヤマトタケルの伝説もそうであり、それ以外の『風土記』にある天皇親征の事績も全て同じである。正史『三国志』にある邪馬台国に関する記述も基本的には同じ構造をもっている。その点において、唯物史観は全面的に排除されるべきである。


そのような歴史的背景があるとはいえ、GHQによる支配下において徹底した非武装化及び民主化が進められた後、現代に至るまで、「決まったことは決まったことだ」という基本観念は維持されていると考える。


そのような素朴なレベルにおける基本観念として、「pacta sunt servanda」を知らない国、または、それを無視する国は、現在の日本国との関係においても、基本的な価値観を共有できない国または人々であると理解すべきであろう。


(余談)


かつて高名な某教授は、法学部の期末試験問題として、「契約を破る自由」について論じさせる出題をしたことがある。


私としては、「契約を破る自由はない」と書けば良いと理解している。無論、これだけでは十分とは言えないが、その理由をきちんと述べることができれば、当然、合格答案となる。すなわち、「pacta sunt servanda」である。

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2019年3月20日 (水曜日)

ココログの仕様が変更になったのだが

かなり使いにくくなった。改悪と言える。
元に戻してほしいと思う。

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