2017年2月21日 (火曜日)

1400年前のピクト人の顔の復元研究

下記の記事が出ている。

 Face of a Pictish Male Who was Violently Murdered 1,400-Years-Ago is Reconstructed in Incredible Detail
 Ancient Origins: 19 February, 2017
 http://www.ancient-origins.net/news-history-archaeology/face-pictish-male-who-was-violently-murdered-1400-years-ago-reconstructed-021233

 Facial reconstruction made of 'brutally-killed' Pictish man
 BBC: 17 February, 2017
 http://www.bbc.com/news/uk-scotland-tayside-central-39002843

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自撮り規制条例?

未成年者に対して自撮りの裸体写真の提供を求める行為を処罰することができないとして,条例による規制が検討されているようだ。

しかし,問題となるような事例の大部分は,児童ポルノ法違反に該当し得るのではないだろうか?

また,事案にもよるが,少年法で対処できる部分が少なくない。

既存の法令の解釈・適用を丁寧に検討する努力を怠ると,やたら刑罰法令が増えてしまって収拾がつかないような事態が発生する。

そのほうがよほど問題なのではないかと思う。

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2017年2月20日 (月曜日)

AI(人工知能)は凶暴化する?

下記の記事が出ている。

 人工知能はゲームに負けそうになると「凶暴」になる:研究結果
 Wired: 2017年2月14日
 http://wired.jp/2017/02/14/deepmind-ai-social-impact/

私に言わせれば,こんなことは最初から明らかなことだと思う。それが明らかでない人々というのは,要するに,数学だけ勉強して哲学を全く学んでいない人々だと断定して良い。私は,1997年に刊行した『ネットワーク社会の文化と法』(日本評論社)の中で,「生存権」の問題としてこの問題をとりあげた。そして,「艸」論文の中では,「カルネアデスの板」の問題として別の側面から私見を述べた。

上記の記事の中で解決策として掲げられている「協調」は,実際には無理だ。それは,アダムスミスの古典的な経済学によって既に明らかにされていることであり,また,生態学の基本(例:アリジゴクのテリトリー獲得実験)を知っていれば,やはり無理だということを理解することができる。野生生物の世界でもそうなのだが,人間の社会においては「欲望」という要素があり,生物種としての生存のために必要な限度を超えた需要が常に存在するから、供給が需要を満たすということが常にあり得ない(←仏教における「カルマ」の考え方は,そのような人間理解を前提とするものだと自己流に解釈している。)。それゆえ,理論的には「協調」は無理なことだということを理解しないのは,要するに,基礎的な教養がないからに他ならない。

私見としては,一般教養を十分に積んでいない研究者は,人工知能の研究から斥けるべきだと考えている。特に,純粋に数学しか勉強していない者は,人工知能研究の従事を厳禁とすべきだろう。

(余談2)

完全に自律的な(autonomous)人工知能システムによって制御される自動走行自動車では,自己学習により,例えば,人間のドライバーが駐車スペースが十分でない場合には自車を前後に少し走行させて前後の車両にぶつけ,無理やりスペースを空けるような行動も学習することだろう。そのような行動は,日本国内ではあまり見かけることがないが,諸外国では比較的普通にみられる。そうやって,自己の有利なポジションを物理的に獲得する手法を学んだ人工知能システムは,更に優位なポジションを得るための手法を獲得し続けることだろう。これも攻撃的なAIの例と言える。

それを防ぐために,法令順守による制御を組み込むことは誰でも考えることだ。しかし,法令遵守を確保しようとすると,実は社会が壊れるということを既に論説に書いてきたし,新たな論説も書いた。近日中に刊行されることになるだろう。

この問題は,実は,製造物責任における開発危険の抗弁と密接な関連性を有する。完全に自律的なAIでは,そのような凶暴性または攻撃性を自動学習する可能性がある以上,開発者は,その危険性があることを承知でその応用製品を社会に提供することになるので,結果を予見できなかったとの主張をすることが許されない。全ての結果について,常に,全部責任を負うべきだと考える。

このような簡単なことを理解できない法学者も存在するが,私見によれば,それもまた無教養または基礎的な知識の欠如のなせるわざだと理解している。

それゆえ,AIに関する研究は,実験室または研究室内だけにとどめるべきものであり,現実の社会の中で応用してはならないのだ。このことも何度も主張してきたことだ。

(余談3)

同じ理系学部に進む学生の中の中でも,小さい頃にファーブル昆虫記に夢中になって全て精読・読破した経験を有する者とそうでない者との差は歴然としていると考える。

ファーブルはダーウィンの親友として知られる。双方の哲学には異なる部分がある。しかし,両者とも天才の一種だったと考えられる。そして,両者とも,当時の古びたままで膠着したようなガチガチの頭の「通説」の偉い学者たちの中で孤立していた。しかし,天才と天才との間には,普通の人にはわからない何か共有できるものがあったのに違いない。それゆえに,彼らは公式の学術組織からの無視や偉い学者達からの偏見を無視し,孤立を気にせず,自ら信ずるところに従って偉大な業績を築き上げることができたのだと思う。

一般に,通説または権威をもって自認するタイプの学術組織は,古典芸能保存団体のようなもので,何か新しいものを生み出すことのできる組織ではない。その意味で,社会にとって非常に有害な存在である場合がある。純然たる古典芸能保存団体は,それが存在し活動を維持しているというだけで大きな社会的な意義と効用がある。しかし,学術団体は,古典芸能を固守するための組織であってはならない。

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2017年2月19日 (日曜日)

季刊考古学138号 特集:弥生文化のはじまり

帰宅途中の電車の中で下記の雑誌を読んだ。

 季刊考古学138号 
 ISBN: 9784639024606
 http://www.yuzankaku.co.jp/products/detail.php?product_id=8334

古代に興味のある人であれば誰でも興味津々の話題だと思う。

どの論説も非常に参考になるもので,とても勉強になった。参考文献としてあげられている専門文献等を更に読んで勉強を深めようと思う。

(余談)

従来のような「全部朝鮮からの渡来人」のような単純過ぎ,かつ,特に明確な客観的な裏付けのない考え方は100%否定される・・・というのが現在の学術上の到達点だと考えるし,考古学の成果を前提とする限り,この結論が変更されることはあり得ないと思う。

私見では,古代の日本列島には現在のサモアの人々と同じような文化圏が土台にあり,そこにベトナム中部~中国南西部経由でわたってきた青銅器文化をもつ人々が支配階級として乗っかり,更に後代になって,鉄器文化をもった北方系の人々が朝鮮半島を通り過ぎて一気に南下してきたと考えるのが妥当ではないかと思う。しかも,青銅器文化は東アジアで独自に発展したものというよりも現在の中欧~東欧~北欧を含め,ユーラシア全体の大きな流れの中で理解すべきものだと考えている。特に中央アジアのバクトリアとその周辺の諸族との関係については,先入観や固定観念のようなものを全て排除して素直な目で見直すべきであると考えるし,考古学ベースの歴史学では既にそのような傾向を濃厚に示すようになってきている。

現代社会に形成された歪んだ民族主義のようなものは,遺伝子学上でも考古学上でも全く支持されないので,これまた廃棄されなければならない。「民族など存在しない」という前提で,生態学の知見を応用し,それぞれの環境に適応するために生活習慣や言語習慣等が細かく分化し,特化したものとなって,それが「民族」だと錯覚されてしまったまま今日に至っていると考えるのが妥当だと思う。客観的な種としての民族は存在せず,一定の文化現象だけが存在していると理解するのが正しい。

ダーウィンの理論の正しい理解によれば,環境に適応した最適化に向けて生物種が進化すると,個々の環境の相違に対応して種々様々な分化と多様化が発生するのが当然であり,「ある特定の社会システムに向けて単一的に最適化するように進化する」といったような唯物史観的な考え方が成立する余地は全くない。事実,生態学における研究成果は,本来の意味でのダーウィンの見解を支持するもので,単一的に最適化することはあり得ないという結果を明確に証明している。それを無理に(人為的に)単一的に最適化させようとすれば,「多様性」というフェールセーフ機能が損なわれてしまう結果,種としての人類は滅びることになる。

良いことも悪いことも,特定の環境条件の下での評価に過ぎないので,環境条件が変化すれば良いことと悪いことの判断基準も大きく変動することになる。その意味で,種々雑多な人々が日々いがみあいながら暮らすことのできる社会が最も幸福度の高い社会だということになるのではないかと思う。

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ゼミ生の投稿論文が優秀賞

私のゼミでは,ゼミ生に論文を書かせ,雑誌に投稿することを義務づけている。卒業論文の代わりになる論文を共同で作成させるということを目的としている。

楽して卒業してもろくなことがないので,苦労しても学生の間に学べることは学んだほうが良いと考えているし,自分の考えをまとめて文章にする訓練もさせておいたほうが良いと考えている。

学生達は,前期(春期)に各自で研究した成果をまとめたレポートをもとに,後期(秋期)では1本の論文にまとめなおすという共同作業をし,それを通じて,社会に出てからの共同作業のための練習をする。

私は,指導教員として,内容に不満足な点があっても口出ししたり添削したりは一切せず,よりよく考えるためには何を調べ,何を読むべきかについてアドバイスだけ提供するという方針でやってきた。

2016年度の投稿の審査結果について本日の教授会で報告があり,ゼミ生の投稿論文が優秀賞に選ばれたことを知った。

学生たちの研究成果を認めてもらうことができ,私の責任を果たすことができた。素直に嬉しい。

  自動車の自動運転に関する法的問題-製造物責任の観点から-
  唐亀侑久(ゼミ長)
  井上優哉
  馬場健志郎
  須藤美有(春期のみ・秋期はスウェーデン留学)

この論文は,法学会誌に掲載される予定。

(余談)

優秀賞を受賞すると,副賞として一定の金員が授与される。

その資金は,大澤芳秋氏という篤志家の方からの寄付金によっている。何ともありがたいことだと思う。

入賞し,賞金を受けることについて,学生達の努力と事情を知らない人々からは「賞金で宴会でもやるのか」とからかわれることがある。

しかし,この賞金は,学生が受領すべきもので,私はただの1円ももらっていない。

事情を全く知らないのに,一体どういう神経をしているのか,自分の著しく低劣なレベルで他人を評価してほしくないと思うのだが,人間関係を重視し,「この金額では,銀座で豪遊は絶対に無理です」と言って笑って済ませることにしている。

しかし,今回の学生は,内外の文献を調べるために,受賞により得る金額よりもはるかに高額の支出を既にしている。

「本当に学問をしたいのであれば,身銭をきっても学問をする」というのが学問の本来の姿なのだが,学生にそれを強いてしまっているのは私の資金不足によるものなので,学生にはすまないと思っている。

そういう事情があるので,受賞により得る賞金を考えても,今回の論文作成の収支決算は,明らかに大幅な赤字になっていると私は評価している。

その学生達の経済的な負担は,受賞という名誉によって購われたことになるだろう。

どの学生も協力してこの論文を仕上げたのだが,特にリーダーとして頑張り続けた学生は,非常に成績優秀であり,かなり著名な良い企業に就職が決まっている。きっと,その企業において,大いに活躍してくれることだろうと思う。

受賞した論文の内容や論理の運びかたについては,私なりの意見がある。私のレベルで評価すれば,資料の選択や内容の理解等に問題がないわけではない。もし私が同じテーマで論文を書いたとすれば,かなり様子の異なるものとなったことだろう。

しかし,そういうことはどうでもよいことだ。

私は,学生の自主性を尊重する。

学生が自分で必死になって調べ,考え,大学生としてやることのできるベストを尽くしたのだから,それだけで十分に立派なことだと思う。

今回受賞した学生達が更に精進と研鑽を重ね,満足すべき人生を自分の手で掴むことを心から祈る。

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2017年2月18日 (土曜日)

考古学ジャーナル 2017年2月号(694号)

三省堂本店で下記の雑誌を購入して読んだ。

 考古学ジャーナル 2017年2月号(694号)
 特集:食文化と考古学-縄文時代の動物遺体-
 http://www.hokuryukan-ns.co.jp/magazines/07journal/j2017_02.html

日本国の動植物に関する具体的な記述の中で最も古い記述は『魏志倭人伝』の中にある。しかし,文字しかない。そのため,従来の学者の多くは,現代の山野でみつけることのできる動植物等を前提にものごとを考えてきた。やむを得ない面はある。

しかし,近年の考古学における解析技術の発展にはすさまじいものがあり,これまでよくわからなかったことが続々と解明され続けている。

今回の考古学ジャーナルの特集記事も,そういう意味で非常に貴重なものの一つと言えるだろうと思う。

雑感としては,日本の哺乳動物に関する限り,その多くが外から繁殖目的で移入されたものが野生化したものではないかとの感を強めた。

動物だけではなく,植物もそうだ。

日本では,人里付近にしか棲息しない動植物がやけに多すぎる。

そういうものを「野生動植物」として法的に保護すること,特に刑罰で処罰することは,憲法違反に該当し得る。強いて言えば,動物愛護法の適用の可否が問題となるのであって,自然保護とは無関係のことだ。

文系・理系を問わず,これまでの通説や先入観のようなものを全部捨て,科学的に証明可能なものを確定し,そうでないものはあくまでも推論として立論するという科学的な立場を重視すべきだろう。少なくとも,特定の政治的イデオロギーによって学術全体をゆがめてきたこれまでの姿勢は完全に改められなければならない。これまた時代のなせるわざとでもいうべきものではあるが,間違いは間違いとして認める潔い態度がなければ,学術であるとは言えない。

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2017年2月17日 (金曜日)

藤瀨禎博『九州の銅鐸工房 安永田遺跡』

大学からの帰路,電車の中で下記の書籍を読んだ。

 藤瀨禎博
 九州の銅鐸工房 安永田遺跡
 新泉社(2016/12/10)
 ISBN-13: 978-4787716347

非常に読みやすく,必要なことが全て書いてあって,とても勉強になった(ただし、銅剣に関しては、朝鮮半島からやってきたのではなく,日本列島から朝鮮半島に渡ったという可能性も検討すべきだと考える。)。

表紙にも用いられている銅鐸(鋳型からの復元品)の紋様には特に注目したい。

上方にある人の顔のようなものは,饕餮(とうてつ)だろうと思う。

その表情は、三星堆遺跡(中国四川省)から出土した青銅像の造形と酷似しているように思う。

下の左側にあるトンボのようなものは,実は龍であると思われる。青龍だろう。

トンボのヤゴは,龍と同じく水辺に棲み,その姿と獰猛な生態はまさに龍だ。そして,成長すると羽化して天に昇る。オニヤンマの悠然たる飛行の姿を知っている人であれば,まさに昆虫の龍に相応しいということを納得できるのではないかと思う。

豊葦原千五百秋瑞穂國の瑞穂については諸説あり,私見もあるが,仮にこれをトンボのことだと解するとすれば,本当は青龍の自負があるけれども日本書紀編纂当時の中国(唐)との関係では東夷として行動しなければならなかったため,「瑞穂」とへりくだった表現を採用したのかもしれないとも考えられる。

下の真ん中にある水鳥のようなものは,朱雀であると考えられる。

下の右側にある亀は,玄武であると考えられる。

上のほうにある饕餮(とうてつ)は,おそらく白虎が四神獣の中で最も強く真の王者であるということを示すのではないかと考える。

饕餮(とうてつ)が白虎を兼ねているとの仮説が正しいとすれば,当時の支配者は,西方からやってきたことになると考えることができる。

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2017年2月 9日 (木曜日)

不調

風邪をひいてしまったらしく,昨日は布団の中,本日はとにかく穏やかに過ごした。明日,外出しないで静養していればどうにか回復するだろうと思う。

加齢には勝てない(苦笑)

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2017年2月 3日 (金曜日)

妙なものを見た

本日の午前3時40分頃のことだ。

近所のコンビニまで飲み物を買いに出かけたところ,夜空に青白く光る火球様の大きなものが落下するのが見えた。

隕石ではなさそうで,ややふらふらしながら落下している。某国からのバルーンのようなものが燃えて落下したのかもしれない。

目測なので不確かなのだけれども,方向としては,龍ヶ崎市の上空のあたりのように見えた。

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2017年1月31日 (火曜日)

Linnet Taylor, Luciano Floridi & Bart van der Sloot (Eds.), Group Privacy: New Challenges of Data Technologies

下記の書籍が届いたので,仕事を中断してざっと読んだ。

 Linnet Taylor, Luciano Floridi & Bart van der Sloot (Eds.)
 Group Privacy: New Challenges of Data Technologies
 Springer (2017)
 ISBN-13: 978-3319466064
  http://www.springer.com/us/book/9783319466064

問題意識は,従前から指摘されてきたもので,『電子商取引法』(勁草書房)の第3章(分担執筆)で既に指摘しているものだ。すなわち,「個人」の本質にかかわる問題を取扱っている。

それだけであれば特に目新しいものではないのだが,現実の問題としてどのような場面において従来のような単純な個人データ保護のアプローチでは失敗してしまうのかについて,主として欧州における状況を前提とした上で,具体例としてはビッグデータにおける要素解析を中心にとりあげながら,多角的に検討しており,勉強になる。

Floridiの分担執筆部分では,一般的な定式化を試みた上で,一般データ保護規則GDPRの適用のための解釈論としての試みが展開されており,非常に興味深い。私個人としては,GDPRの解釈論もさることながら,理事会決定2009/936/JHA及び理事会決定2009/936/JHAの問題点をより深く認識するために役立った。

また,本書では参考文献等の記載が充実しており,更に深く研究したいと考えている研究者にとってはレファレンスとしての有用性の高い書籍となっていると思う。

個人データやプライバシーと関連する分野の研究者であれば,一度は目を通しておくべき書籍だと評価することができる。

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