2021年6月19日 (土曜日)

授業改善評価アンケートの評価

明治大学では,授業改善評価アンケートなるものの実施が求められている。内容は,他の大学でも同じようなものが用いられているようなので,どこか別の機関・組織において標準化されたものだろうと推測する。

このアンケートの項目を丁寧に検討した結果,差別主義者が作成した差別的なアンケートであり,違法物であると判断した。評価アンケートという文書に対する評価結果としては,マイナス100点が相当と考える。

様々な問題が含まれているが,それら多数の問題項目の中でも特に差別的で人権侵害的な項目(必須事項)は,下記の項目だ(点数の欄は省略)。

  設問形式 単一選択形式(ラジオボタン)
  回答必須 必須
  設問内容    教員の声,言葉は聞き取りやすいですか
  回答項目・点数 とても聞き取りやすい
          おおむね聞き取りやすい
          少し聞き取りにくい
          とても聞き取りにくい

特に問題のある設問のようには読めないかもしれないが,受講生の中に聴覚障害者が存在し得るということを理解し,そのような受講生に対しても平等な授業アクセスを提供するという観点を没却した差別的な項目となっている。

それと同時に,情報セキュリティ上の理由や,SNS等で授業内容の録画が流通してしまうという問題(最悪の場合,受講生の姿も写り込んでしまうという問題)等も十分に考慮した上で,私は,電子掲示板機能を利用した文字情報によるオンライン授業という方式を採用している。

これは,古典的な板書による講義+オンラインのリアルタイム質疑応答+提出物に対する個別のコメント提供による双方向性の確保をめざすものであり,現実のリアル講義よりもはるかに双方向的で内容が充実したものとなっていると自負している。

また,文字だけでは理解しにくい場合,図や表等を電子ファイル化し,授業の中で提供している。

このアンケート項目の中には「音声による授業を実施していない」場合を選択する余地がなく,そのようなタイプの授業を適正に評価するような仕組みの片鱗もうかがえない。その意味でも,学問の自由に対する侵害的なものであり,差別的なものであり,到底容認できるものではない。

加えて,疾病や怪我等の理由により,どうしても明瞭に発音できない教員に対しても,かなり差別的で人権侵害的な項目であると言える。

なお,私が文字情報を基礎とする授業方法を採用することについて,受講生に対しては,下記のように説明している。この説明の中にある利点に加え,留学生にとっては,意味のわからない語句があっても,(単語レベルであれば)機械翻訳の機能を用いて母国語による(その語句の)表現を獲得することが不可能ではないという利点もある。更に,講義内容を予め文書として作成しておくことになるので,授業担当者自身が授業内容を事前に精密に検討し,修正すべき点は修正する機会をもつことができ,また,(方言等による場合を含め)語彙や発音のゆらぎによる不正確な授業内容の提供のリスクを可能な限り事前チェックし,低減させることができるという利点もある。

*****(受講生に対する説明内容)*****

この授業は,Oh-o! Meijiのクラスウェブ上の「ディスカッション」の電子掲示板機能を用います。

Zoomを含め,現在一般的に利用されているオンライン授業用のアプリケーションには様々な問題があるため使用しません。

その結果,この授業は,基本的に,Oh-o! Meijiの「ディスカッション」の電子掲示板機能を利用した文字情報による講義+オンラインチャットによる質疑応答だけの授業になります。

電子掲示板機能を用いた文字情報だけによるオンライン講義の場合,授業の準備及びコンテンツ作成のための担当教員の負担と作業時間が著しく増加し,体力的にも精神的にも消耗度が高いという問題があります。半期の講義の文字数合計で専門書1冊分以上の分量の精密な文書を作成しなければなりません。しかし,そのようなタイプの問題は,教員の側だけの問題です。個々の受講者とは関係のないことです。

文字情報によるオンライン授業における受講者にとっての利点は,以下のとおりです。

(1) 講義内容と質疑応答の内容は,文字情報として保存・提供されますので,たまたま授業に参加できなかった学生でも,後から過去分をバックトラックして学習・復習することができます。

(2) 一般に,映像情報や音声情報の提供による授業では文字列検索等が非常に困難または不可能ですが,この授業では基本的に文字情報の提供だけによる授業ですので,文字列検索や情報の整理が極めて容易です。受講者各自が自分用のサブノートを作成する上でも利便性が高いと言えます。これらの点は,他の方法では決して得られない顕著な長所です。

(3) 文字情報だけの場合,音声読み上げアプリを使用することにより,視覚障害のある受講生でも受講できるというメリットがあります。聴覚障害のある受講者に関しては,全く問題なく,授業内容を知ることができます。文字情報による授業は,バリアフリーの程度の比較において,他の方法による授業よりもはるかに勝っています。

(4) ビデオ方式のオンライン授業の場合,眼の負荷が大きくなり,視力の低下等の弊害が生じることがあります。文字情報だけの電子掲示板方式の場合,プリントアウトを利用することにより,眼の疲労を少しでも緩和することができます。

(5) ビデオや音声によるオンライン授業の場合,同音異義語の識別・認識の可否は,受講者の能力(特に日本語の語彙力)に依存することになります。しかし,文字情報によるオンライン授業は,板書による授業の場合と同様,受講者の能力に依存することなく,正確に同音異義語を識別可能な形態で授業内容を提供できます。 

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2021年6月13日 (日曜日)

米国:情報セキュリティ担当者だった者がサイバー攻撃の犯人だったとして起訴された事例

下記の記事が出ている。

 DOJ charges cybersecurity official for attack on Georgia hospital
 ZDNet: June 11, 2021
 https://www.zdnet.com/article/doj-charges-cybersecurity-official-for-attack-on-georgia-hospital/

 Chief Operating Officer of network security company charged with cyberattack on Gwinnett Medical Center
 DOJ: June 10, 2021
 https://www.justice.gov/usao-ndga/pr/chief-operating-officer-network-security-company-charged-cyberattack-gwinnett-medical

「神の神はいない」ので,情報セキュリティ担当者が加害者だった場合,要するに,(1)組織内部における情報セキュリティ上の階層構造の最上部または(2)当該組織の支配力が及ばない外部の情報セキュリティ組織の中に裏切者が存在することになるので,当該の者がセキュリティ業務に従事している組織の運営者が自分の組織に対するサイバー攻撃の有無及びその加害者をリアルタイムに検出することが難しくなる。
実被害が発生してから警察の力によって事実関係を突き止めるしかない。

この事例は国際的なスパイ事案ではなさそうだが,どのような場合であっても国際的なスパイ事案と同じような発想(=裏切者の存在を想定すること)とその予防策が常に必要な時代が到来したということを示している。

私自身との関係では,何人かの裏切者を確知しているが,気づかないフリをして泳がせ続けている。そうすることによって,その者が何を考えて行動しているのか,何を目的として行動しているのか,何か背後関係があるのかを推知する資料を蓄積することができるからだ。いざとなれば告訴するつもりだ。

私だけが特殊なのだとは思っていない。社会というものは基本的に生存競争なので,常に裏切者が存在することを想定して理解する必要がある。無邪気な空理空論ばかり教えられて素直に育ってきた学生達にそのことを理解させることはとても難しいことなので,授業の設計・構築・運営においても苦労することが多い。

 

(余談)

以前,似たような事柄について,トマス・ホッブズに触れる記事を書いたところ,高校の社会科レベルのコメントをもらったことがある。

頭の悪すぎる人のコメントだと評価し,反論しなかった。反論しても適正な理解能力を期待できないという意味で無意味だからだ。

私自身は,高校生当時,「嘘と欺瞞だらけだ」と認識しつつ高校の社会科の授業を受けていた。他の科目の多くでもそうだったのだが,高校教師自身が批判的に検証し,オリジナルの資料に遡って自身の見解を構築するだけの十分な知的能力をもっているとは到底考えられなかったので,学校の授業とは無関係に独力で大事なことを勉強し続けるしかなかった。大学においても基本的には同じだった。
実は,司法試験勉強の際にもそうだった。
当時の法学上の通説は,でたらめが多く,当然,破壊されるべきものだった。
司法試験に合格するためだけではなく,一撃で通説を破壊できるだけの力量を身につけるためには何を置いても相手それ自体を正確に知り,自由自在に使いこなせるレベルになっていなければならないので,自力で自説を構築し続けるのと同時に,法学上の通説を猛烈に勉強した。

私の人生は,塞翁が馬の一種の連続だったと言える。

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2021年6月12日 (土曜日)

荀子

一般教養の一部としてであっても,人生の中で1回は通読しておいたほうが良いと思う。

私は,『大同類聚方』の読解の過程において,語彙のレベルを含め,かなりの時間を割いて格闘し,現在でも格闘し続けている。

『荀子』は,観念論ではない。さりとて,実務書でもない。

宰相としての苦難の人生を経験し,極めて優れた頭脳によって帰納法的な手法により洗練されたものとしてまとめられた理論書だと言える。

通常の宗教の経典のようなものとは全く異なる。

『荀子』の文章は極めて緻密なので,一語一句疎かにできない。

今後も更に格闘し続ける。

数ある漢籍の中でも私の感性と最も相性が良いので,格闘し続けることは可能だと思っている。

ちなみに,完全にプラグマティックな立場にたつとしても,現在の中国共産党政権における基本政策の一部を知るため,『荀子』を通読しておいた方が良いと考える。

 

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2021年6月 5日 (土曜日)

野生動物等の大量逃避行動

ディズニーの「やらせ映画」のような例もあるので,ほぼフェイクの場合が多数あることを念頭に置いた上で・・・古代からその種の異変の記録があることを無視することはできない。全く根も葉もないことではないと思われる。

大規模地殻変動等に起因して地殻から放射される電磁波の異変により,そのような行動が惹起されることもあるのではなかろうか?

 

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2021年5月29日 (土曜日)

フランソワ・クープラン:修道院のためのミサ曲:聖体奉挙(Elevation)

久しぶりにオルガン曲を聴いた。

フランソワ・クープランの修道院のためのミサ曲(Messe pour les couvents)の中にある「Elevation. Tierce en Taille」。このミサ曲は,フランソワ・クープランが作曲した2曲のオルガン・ミサ曲中の1曲として知られている。

人間は,どうしてこのように崇高な楽曲を創り出すことができるのだろうか?

異なる演奏家による幾つかの演奏を聴いた。しかし,どの演奏家による演奏によっても楽曲それ自体の価値が損なわれることがない。つまり,楽曲それ自体の優秀さが余りにも圧倒的過ぎて,演奏家の恣意が入り込む余地が全くないのだと言える。

この曲を聴いていると,そのまま昇天してしまいそうな気分になる。

完璧な楽曲とは,このような作品(works)のことをいうのだろうと思う。

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グスタフ・レオンハルトの指揮によるブランデンブルグ協奏曲

これまでに何度も聴いた演奏なのだが,グスタフ・レオンハルトの指揮及びチェンバロによる大バッハのブランデンブルグ協奏曲(全曲)を聴いた。元はSEON原版で出ていたCD。

素晴らしい演奏ばかりだといことについてほぼ異論はないと思う。付け加えることはない。

齢をとってから聴いてみて,何となく,レオンハルトの現代性というか前衛性のようなものを感じた。
レオンハルト自身がそのように明確に意図していたかどうかは全く知らない。
あくまでも素人の感想に過ぎない。

第5番は,全体として,まるでブラームスの交響曲や協奏曲を聴いているかのような気分になる。特にチェンバロの独走部分はそうで,どうしてもっとチェンバロを浮き立たせるようなマイク配置で録音しなかったのか,かなり疑問。レオンハルトの高貴な人格のなせるわざかもしれない。

第2番の第2楽章は,シューマンの交響曲やプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲に顕著に現れる時計音楽の元祖のように聴こえる。
これまた,レオンハルトが意図的にそのような演奏をしたのかどうかは知らない。
しかし,チェンバロの演奏が時計の刻みの音のように聴こえる。素晴らしい。

第6番の随処にベートーヴェンのリズム動機の原形のようなものがあるのを感じる。同じような躍動感は,管弦楽組曲第3番の序曲でも感じ取るることができる。
この点に関しても,レオンハルトが意図的にそのように演奏したのかどうかは知らない。
しかし,そのように聴こえるのだ。

大バッハは偉大だ。

***

このところ,時計にこだわっている。

ガリレオ・ガリレイの時代頃以降,欧州においては,機械仕掛けによる時計が急速に普及したとされている。数学の才が顕著だった大バッハの家にも大きな時計があったのではないかと想像される。
関連する文献資料等を細かく調べればわかることかもしれない。ただ,私に残された時間を考えると,最優先の調査検討課題とするわけにはいかに。

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2021年5月27日 (木曜日)

ドヴォルザーク「Lasst mich allen」Op.82 No.1

仕事に一区切りつけることができたので,ドヴォルザークの「Lasst mich allen」Op.82 No.1を聴いた。

チェロ協奏曲の中にも変形されて登場する甘美な旋律。

美しい。余りにも美しすぎる。そして,悲しい・・・

 

[追記:2021年6月18日]

パイネマンのヴァイオリン独奏,ホカンソンのピアノ伴奏による4つのロマンティックな商品・作品75(SFB Recital Recording in Berlin: rbb SSS0228/0230-2)を聴いた。

「Lasst mich allen」を聴いて感じるのと同じような微妙な哀愁が漂う美しい曲だと思う。

楽譜の譜面を読んだだけでは絶対に味わえない素晴らしい名演。

 

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2021年5月15日 (土曜日)

ブルックナーの交響曲第9番

ブルックナーの交響曲第9番は,未完で終わった楽曲であるせいかどうか,その解釈と演奏が多様なものとなっている。

それぞれ聴き手の趣味の問題でもあるので,どの指揮者とオーケストラによる演奏が一番良いとか悪いとかいう講釈の類はほとんど無意味だと思う。

しかも,私は,音楽学者ではないので,素人として自由に聴き,意見を述べることのできる立場にある。「当該分野の専門家ではない」ということの自由さとありがたみを日々痛感する。

それはさておき,楽曲の構造が透けて見えるという意味では,(オーケストラの金管が部分的にもたつくという難はあるけれども)ギュンター・ヴァントの「原典版」による1998年のライブ録音による演奏が最も優れているのではないかと思う。全体としてみると,非常に完成度の高い演奏の1つとして評価可能だと思う。
この演奏は,大規模オーケストラによる演奏なのに,まるで室内楽であるかのような透明感に溢れ,ポリフォニックとでも表現し得るようなブルックナーの楽曲中における複数の「流れ」の絡み合いと合流(ユニゾン)の繰り返しがまるで川の流れを上流から下流まで河岸を散歩しながらながめてでもいるかのようによく見える。実際に小川の流れを楽しみながら散策した経験を豊富にもつ人であれば,私が何を言いたいのかわかってもらえるだろうと思う。レオナルド・ダヴィンチのように流体の運動の細部を仔細に観察したいのであれば,それにも向いてる演奏ではないかと思う。アーティキュレーションがとても美しい。

弦楽器のピチカートの部分は,シューマンの交響曲からの流れによるものではないかと思う(そのルーツは,ハイドンの「時計」交響曲かもしれない)。現実から飛び出した(白日夢のような)夢想の世界を刻む時計の音。そんな感じだ。そのような音は,プフィッツナーのヴァイオリン協奏曲,プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲,スクリャービンの交響曲,シベリウスの交響曲の中にも見え隠れする。

感情移入は聴き手の自由なので,聴き手それぞれの個性に応じて,各人各様のベスト演奏のようなものがあるだろうし,それで良い。思想・信条の自由が認められているので,そうでなければならない。

以上の前提で,あくまでも素人の直観的な感想としては,第9番の交響曲はブルックナーの交響曲の中でも特別の存在のように感じる。

シベリウス,コルンゴルト,プロコフィエフ,ショスタコーヴィチ,ペルト,カンチェリ等へとつながる要素をふんだんに含んでいる。ブルックナーの音楽の底流にオケゲムのような古い教会音楽の伝統があることは疑いようがなく,例えば,ペルトは,そのような部分に触発されて自分自身の音楽の世界を構築し始めたのではないかと想像される。

別の表現をすれば,現代の社会において,映画音楽やBGM,あるいは,ジャズやロックやポップスの名曲を通じて普通に耳にする音楽スタイルの基礎が全て存在している。

私は,シベリウスの音楽がブルックナーの音楽の直系の後裔のような気がしてならない。

私が大好きなシベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴き,そして,ブルックナーの交響曲第9番を聴く度にそのように感じる。

そして,ブルックナーの交響曲第9番の第3楽章の最後の部分を聴くと,ブルックナーは,第4楽章を完成できないかもしれないということを直観的に理解していたのではないかと感じる。そのため,交響曲第7番のモチーフを通じて,第2番や第3番の交響曲を書きあげた頃のワーグナーとの出会いと交友を回想しているかのような気分をもたせるものになっている。

ブルックナーが存命中にブルックナーの音楽の神髄を理解できた作曲家がどれだけいたのかは不明だ。

マーラーだけはわかっていたという伝説的なエピソードが幾つかある。しかし,私の理解では,マーラーの音楽世界とブルックナーの音楽世界とはかなり異なるものだろうと思う。個人的には,ブルックナーの音楽は,いわば「祈りの音楽」のようなもので,マーラーの音楽は,「もがきの音楽」のようなものと感じる。

そのように自分の内的世界が全く異なっていても,結局,「天才を天才として認めることができるのは天才だけだ」というあたりが非常に興味深い。

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2021年5月13日 (木曜日)

城里町におけるワクチン接種

城里町の町長らがワクチン接種を受けたことについて,批判があるようだ。

私は,別に問題はないと考える。一体どこがどのように悪いのかわからない。

組織の判断決定機関が倒れてしまったのでは,(個々の町職員のレベルで町全体にかかわる意思決定をすることなど許されることではないので)町役場として機能しなくなる危険性がある。そうなると,町として町民に対して様々な対応策を講ずることもできなくなる。

組織のトップと参謀は最優先で守られなければならない。

そこから先は,各首長の世界観の問題があるので,(もし自分が倒れたらどうすべきかを明確かつ詳細に決定した上で)自分以外の者を優先することがあっても,それもまた特に問題とすべきではないと考える。組織トップの裁量権の範囲内のことだ。

それゆえ,上記の批判があることは理解できないわけではないけれども,別に問題はないと考える。

町長は,「正しい判断だ」と信念を貫けばよい。わからない人にはいくら説明してもわからない。説明しているだけ時間の無駄なので,コロナ対策のために誠心誠意執務を尽くしてほしい。

***

あくまでも一般論としては,マスコミとしては,文字通りステレオタイプの発想しかできないような無能なスタッフやキャスター等がいたら,重要な仕事から外し,それに代えて,複眼的で合理的な利益衡量を即時に実行できるレベルの優秀なスタッフやキャスター等を採用すべきだと思う。そうしないと,マスコミの報道内容が硬直化し,破綻し,自滅することになる。

***

私自身は,ワクチンが万能ではなく変異型に対してはあまり有効ではないかもしれないと考えているし,また,ワクチンの有効性の有無・程度は各人の生来の遺伝子組成の相違によって大きな差があると考えていることもあるが,仮に十分な有効性をもつものであるとしても,ワクチンを受けたいと思っている人々が多数あり,全員に行き渡るだけの十分なストックがあるわけでもないという現状に鑑み,(国が定めた枠組みの範囲内において)ワクチン接種を強く希望する人に対して譲る方が妥当だと考え,ワクチンの接種を受けていない。

自分が「老人になってしまった」と感じたら,学者としても教員としても指導的な立場から完全に退き,後進が自分の考えたとおりに思う存分活躍できるようにすべきだと考えてきた。そのため,大学においても,時間をかけてそのための準備をしてきたし,いつ私がいなくなっても業務に支障が出ないように手配してある。

だから,仮にワクチンを受けなかったということに起因して私が倒れることがあったとしても,それは想定の範囲内ということになる。

私は,「自分だけは例外」とは全く思わない。

人間は,生物の一種である以上,いつか必ず死ぬので,自分が死ぬ日のことを常に想定ながら生き続けるべきだと信じている。そのように自分の死を想定しはじめてから,いつのまにか10年以上の歳月が過ぎてしまった。

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2021年5月11日 (火曜日)

Heinrich Isaac: Missa de Apostolis

手間のかかる仕事に一区切りをつけ,ぼ~~っとしていたら,郵便が届いた。Amazonで注文していた中古CDだった。

このCDは,ハインリヒ・イザークの使徒ミサとモテットを収録した「Heinrich Isaac: Missa de Apostolis (Gimell CDGIM 023)」。演奏は,タリス・スコラーズ。

現在,ネット上にもアップロードされている楽曲なのだが,著作権処理に関して全く不明。そこで中古CDを購入することにしたのだった。

使徒ミサのキリエ(Kyrie)がこの世のものとは思われないくらい美しい。素晴らしい。

モテットの中では「Tota Pulchra Es」が最も私の感性に合っている曲のように思った。何とも不思議な深みを伴う響きがある。人の声だけの曲なのに,あたかもオルガンが一緒に奏でられているかのように聞こえる。

CDの解説書の表紙には,イザークが仕えたマクシミリアン1世の肖像画が用いられている。

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