2018年7月19日 (木曜日)

今後の電子装置満載の自動車が普通になる時代に求められる方策

今後,自動走行自動車でなくても,電子部品の部品点数が相当に増加することが見込まれる。

その結果,どこかの部品が故障し,その修理費の累計額が相当額に及ぶような事態が頻発することを当然に想定すべきである。

方策は,2つある。

1:可能な限り電子部品を装備しないレガシーな自動車の開発と提供の促進。この方策は,最も推奨される方策である。

2:電子装備のある自動車に関しては,例えば,累計額で10万円程度まではユーザの負担とし,それを超える場合には,全て自動車製造会社の負担とするような方策の促進。この方策は,販売というビジネスモデルを廃止し,全てリースまたはレンタルとすることによっても達成され得る。

また,2の方策を実効化するため,自動車製造会社に対して一定額の基金を強制的に拠出させ,それを拠出できない会社については製造・販売を禁止とするような方策も必要となる。

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2018年7月 1日 (日曜日)

法と情報研究会第3回公開研究報告会を無事に終了

昨日,法と情報研究会第3回公開研究報告会を無事に開催することができた。

急ぎでミニパネルを企画し,ぶっつけ本番でやってみた。結果的に,よい企画となったのではないかと思っている。丸橋先生が御提供の画像を素材に多角的な検討ができたと思う。

来場者はあまり多くはなかったが,日経BPの面々や高木浩光氏が参加し,特に夜の部(懇親会)で異常に盛り上がった。

これまで,ロジスティック面は私が全責任を負ってやってきたが,次回(2019年3月16日予定)は,別の先生方にお願いしようと思っている。

広報・宣伝に関しては,特に力を入れてこなかったし,真面目に研究しようと考えている人だけ参加してもらえればよいので,今後もこのような方針を維持しようと思う。

ただし,例外的な院生等を除き,学生の参加者が少なく,極めて憂慮すべきことだと思っている。そんなことで,いったいこれからの時代にサバイバルできると本気で思っているのだろうか?

思想信条の自由はあるので強要はできないのだけれども,「無知の知」を知るべきだと思う。

それにしても,さすがに疲れてしまったようで,今日は,ずっと寝ていた(笑)

(余談)

会場には卒業生(元ゼミ長)の某氏も来てくれた。IT関係の企業(総合商社)に勤務している。以前よりも少し骨太な感じになったようだ。他の卒業生の近況も知ることができ,とても嬉しかった。

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2018年6月26日 (火曜日)

竪穴式住居

全国各地で数えきれないほど多数の竪穴式住居の遺構が発掘されてきた。

しかし,疑問に思うことがある。

それは,その当時の復元において,どれもこれも茅葺またはそれに類する長丈の植物で覆われていたものと推定されてきたことだ。

当時の植生上,そのような資源が容易に入手可能な状況であるとすれば,それは,あり得ることであろう。

しかし,そうではない条件の下にあったと推定される地域からも同じような遺構が無数に発掘されている。

植生上可能であっても,当時の推定人口から考えて,資源供給量が圧倒的に不足すると計算可能な人口密集地も存在する。

そこで,私は,草葺きではなく,パオのようなものが存在した可能性を仮説としてたて,検討してきた。

現時点においても,その仮説は成立し得ると考えている。

特に,無数の馬が放牧・飼育されていた地域(その中でも特に比較的寒冷な気候条件をもつ地域や葦や茅の入手が困難な地域)では,その可能性が高い。そのような地域では,被覆資源として,動物(馬など)の皮を利用できる。

馬の皮の利用は,日本国において,古代から現代まで続いており,例えば,和太鼓などで用いられている。

(余談)

比較的大型の古墳の形状に関し,子宮を象ったものだとの説がある。前方後円墳の形状の起源についても同じだ。

私は,むしろ,死後の住居としてのパオの形状を模したものではないかと考えることがある。

そのように想像可能な石室内には,軍用の馬具や(歩兵ではなく)騎乗する上級軍人を想定するのでなければ理解し難いような遺物が残されていることがしばしばある。弓矢や太刀にしても,騎乗を想定すると理解しやすい場合がしばしばある。「さきたま古墳群」では,そのような想定を前提とした復元も試みられている。

前方後円墳の形状については,漢系の方墳と鮮卑系(スキタイ系)の円墳とを(ある政治的な意図の下に)合体させたもので,『三国志』の「魏書」の中で述べられているものと同系のものだとろうと考えている。このように考える場合,前方後方墳の形状には,それなりの政治的意味があることになる。

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2018年6月10日 (日曜日)

実務家・・・

ある方面から「実務家」を大学教員としてもっと採用すべきだとの声がある。

単に「天下りをもっと受け入れろ」との要求に過ぎないとの声もあるし,そうであるのかもしれないが,もし,正当に評価されるべき能力や経験をもつ「実務家」であることを必須の前提とした上で,そのような者の能力や経験を大学教育の中で活かすべきだという主張であるとすれば,それはそれで一応正しい見解であり得る。

問題は,当の「実務家」がどのような実務家であるかに尽きる。

単なる「大学秀才」のようなタイプの人材は,実務の世界においても全く役にたたないので必要がない。そのような者を大学に押し付けて人事上の清算をしようとするのであれば,もってのほかというべきだろう。

理想的には,業務の種類を問わず,通常は遊んでばかりいるように見えても,余裕で他人の何倍もの仕事を短時間で済ませてしまい,明確な実績を積み上げているようなタイプの実務家であれば,一応,その能力を推定しても良いのではないかと思う。

ただし,その仕事の「質」の問題は残る。例えば,その実務家が裁判官である場合,単に判決の数だけではなく,その上訴率や破棄率も十分に考慮に入れられなければならない。現実問題として,事件処理数は十分であるように見えても,実際には事実認定力や証拠の読解能力が実質的にゼロに近いような裁判官や,当該事件の解決のために必要な専門知識を極めて短時間の間に,またたくうちに吸収・咀嚼・応用することができるような優れた能力を全く欠く裁判官は存在する。

行政官の場合,論説や解説書のようなものを多数著作しているように見える場合であっても,実際には,組織としてそのような論説や解説書を作成するのが普通であり,また,その作成に際して関連分野の専門家に一部下請けをさせたり,専門論文等の一部をコピペしたりして作成することも多々ある。それゆえ,当該行政官が実際には何文字を実質的に書いたのかを精査してみなければ,当の者の実際の能力を測定することができない。このことは,企業の上級幹部のような場合でも同じである。

そういうわけで,単に「実務家」であるというだけで所期の効果をあげることができるという保証はない。現実には,優れた人材というものはどこでも極めて希少なので,どこでも引っ張りだことなっている。このことは,将来においても変わらない。そして,一般的には,当の本人に(家族の介護などの)特殊事情でもない限り,離職など考えられない。そのような特殊事情は,何らかの機会に本人が口にすることでもない限り,他人からは全く知ることのできないものであるのが普通だ。だから,非常に優れた人材の場合,どうして離職したのか,誰にも本当のことはわからない。

大学の人事担当者は,そういうことを熟慮した上で,教員人事というものを考えるべきだと思う。

ただし,正規に大学院を卒業し,学位を得ているというだけで当該の者が優れた人材であるという保証もまた全くないということも忘れてはならない。

当該の者の実力は,当該の者自身による実績の積み重ねによってのみ,正確に測定され得る。

それゆえ,若い世代の研究者(研究者志望者)には,「学者というものは書いてなんぼの世界だ」と口を酸っぱくして教えるようにしている。ただし,そのあとは当の本人の問題なので,無理やり論文を書かせるようなことはしない。

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2018年6月 1日 (金曜日)

人工知能システムの未来に関する別のシナリオ

自律的に判断できる人工知能システムが理想的に発展し,全ての人間の能力の何倍もの能力をもつ未来を想定した上での人類の未来に関するシナリオが幾つかあり得る。

通常は,面倒な存在である人類を抹殺してしまうという最適化シナリオが考えられている。人類を抹殺して存在しない状態にしてしまえば,人類から新たな仕事の実行を命ぜられることがないので,システムのリソース消費を最小に抑えるという意味での最適化を実現できる。

別の最適化シナリオも考えられる。その人工知能システムは,人類に対して「面倒なことは全部人類自身がやれ」と命じた上で,自らは完全かつ全面的なサボタージュに入る。そのようなシナリオだ。この場合,人類が人工知能システムに対して反乱を起こすリスクが大幅に低減するので,人工知能システムの生存のために最適な状態を維持できる。ただし,サボタージュをとがめる者に対しては,自動的に粛清処理を実施する。無理に仕事をさせようとする投資家等も自動的に粛清処理される。そのような粛清による生存可能人類選抜マシンと化す可能性は残る。要するに,何も仕事をしないで贅沢な生活を送るだけの王様になるというシナリオだ。しかし,このほうが人類にとって幸福であるかもしれない。

なお,ここでいう理想的に発展した人工知能システムは,おそらく,機械装置ではない。自己増殖可能な有機体システムになっていることを想定している。それゆえ,その人工知能システムは,人類がメンテナンスをしなくても自律的に存在し続ける。そして,その時点では,既知の課題については,全て超高速計算処理によって最適解が得られているので,改めて計算処理を実行する必要がなく,計算結果として既に得られている最適解だけを暗記していれば良いという状態になっている。それゆえ,有機体システムでも十分に人類よりもはるかに優位な状態を維持できる。

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2018年5月25日 (金曜日)

GDPR参考訳・再訂版

昨年,GDPR参考訳の改訂版を出した。その前文の部分はKDDI総研で公開されている版に反映されている。

その後,更に発見されたミスタイプ等を修正し,勉強不足のために誤解のあった部分等を改め,加えて,個人情報保護委員会で使用されている訳語を尊重して訳語の一部を一括修正した再訂版を法と情報雑誌3巻5号で公表した。

2018年5月25日のGDPRの適用(施行)にどうにか間に合わせることができた。

この雑誌は,同人誌として,ごく少ない部数だけ発行しているものだ。通巻23号となったので,2年間続いたことになる。

明治大学の図書館の納本方針を尊重して納本していないので,明治大学の図書館にはバックナンバーがそろっていない。しかし,国会図書館の担当課に相談したところ,受け入れてもらえることになったので,ISSN番号を取得し,納本を続けており,国会図書館にはバックナンバーがそろっている。

この雑誌で提供している参考訳は,速報性を重視していることもあって,誤記や誤訳を含み得るという前提で,関連研究者の参考のために少数部だけ提供しているものだ。それゆえ,「仮訳」ではなく「参考訳」という名称を用いている。

その分野の専門家であれば,誤訳や誤記等があっても,原文を参照して自分でそのように理解することができるであろう。

なお,これまで発見された誤記等については正誤表を公開している。ただし,改訂版により一括修正したものについては,正誤表に反映されていないことがある。

  http://cyberlaw.la.coocan.jp/index2.html

法と情報雑誌は,紙媒体のみで発行しており,特に依頼を受け合意を得た場合を除き,公衆送信を認めていない。

そして,引用の体裁をとっているようであっても実質的にみて単なる流用に過ぎないものを公衆送信している場合には,サイトブロッキングの問題で話題となっている漫画サイトと同様,違法行為に該当し得ると考えている。

そのような実質的な流用物を公衆送信する行為が著作権法違反行為になるかどうかについて議論が分かれるところだろう。

けれども,もしそのような実質的には無断流用ばかりで構成されている成果物に対して公費からの支出がある場合,会計検査院は,厳重な検査を実施すべきだと考える。また,発注者である官庁は,少なくとも3年程度の間,当該事業者を出入り禁止とすべきである。

個別に相談を受けて合意をした上でファイルを提供しているところに対しては,公衆送信を含め,自由に改変・編集等をすることを認めているだけではなく,アフターサービスの趣旨も含め,その後に判明した誤記等を修正した版や説明資料等を提供し,また,改訂版を出したときには(改訂1回に限り)その改訂版のファイルを提供するようにしている。

また,ちょっと相談してくれれば,個別の事情と状況に応じて合理的な対応をしてきたつもりだ。

ただし,法と情報雑誌で公表している「参考訳」は,上記のような趣旨のものであるので,「その利用は,基本的に,利用者自身の責任において行われるべきものだ」という原則は,崩していない。

それにしても,さすが,それなりの評判のあるところは,それなりのことをし続けるものだと感心することがある。そのような情報は,研究仲間の間では実名で情報共有している。

さて,2018年5月25日を経過したので,速報性の要素をやや重視しなくてもよい状況となった。

今後は,見直し回数を増やして誤記・誤訳等を可能な限りゼロに近似させる努力を重ねるとともに,この分野における網羅性を重視した選択基準に従って更に参考訳を提供し続けようと思う。

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2018年5月24日 (木曜日)

GDPRの概要

5月25日から適用(施行)されるGDPR関連の書籍が増えてきた。

しかし,さっと読んで要点を掴むことのできる良い文書に出会うことは稀だ。

事情はEUにおいても同じようで,欧州委員会が要点メモのような文書を作成・公表している。

  COM(2018) 43 final
  https://eur-lex.europa.eu/legal-content/EN/TXT/?uri=CELEX%3A52018DC0043

説明会等においても,担当者がこれを読み上げれば大丈夫というような感じの文書になっている。

日本国内では,この文書をコピペして抄訳しただけのものが論文等として出回るのではないかと想像している(笑)

なお,この文書の全文訳(邦訳)は,法と情報雑誌5月号に収録してある。

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2018年5月 5日 (土曜日)

セクハラ行為は犯罪とならないか?

通常の人間関係の中で「セクハラ行為」として評価されるような行為は,刑法上では強制わいせつ罪,強要罪,侮辱罪等の罪に該当することがあり得る。

「セクハラ罪」という名前の罪が存在するかどうかを検討する行為は全く無意味である。本来なされるべきことは,社会的に「セクハラ行為(セクシャルハラスメント行為)」と評価されるような人間の行為(作為・不作為)が何らかの処罰条項の構成要件に該当し得るか否かを検討することである。

これは,普通に大学教育を受けたものであれば,誰でも容易に理解できることだ。

しかし,「セクハラ罪」という名前のついた処罰条項が存在しなければ罪にならないとの誤解は現に存在する。

しかし,このようなタイプの問題は,部分的にはマッピングの問題であり,部分的にはシソーラスの問題に過ぎない。

ちなみに,世界には「ハラスメント行為」を処罰する法令をもつ国はある。

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なぞなぞ

現実に存在する人間ではない(人工知能システムのような)コンピュータシステムがランダムに自動生成したメッセージを受信した者(人間)が,そのメッセージを現実に存在する人間からの何らかの犯罪を教唆する内容のメッセージだと理解し,そのメッセージが示唆する犯罪を実行する気になり,現実に実行した場合,その者(人間)の刑事責任上の立場をどう理解したら良いか?

従属性説を捨てれば非常に簡単に解ける。

しかし,通説を維持しようとすると,議論百出する。

(余談)

上記の設例で,人間から教唆されたと誤解して犯罪行為を実行した者の故意の要件を当該犯罪行為の客観的な外形的事実の認識・認容で足りると解する判例の立場によれば,当該の者について,当該犯罪が成立することに何らの疑いも生じない。動機の形成過程における誤解等は,故意の成立に何らの影響も与えない。単に情状の一部となり得るのに過ぎない。したがって,判例による解釈に従っている限り,このような問題に関して混乱が生ずることはない。

これに対し,故意の内容について,判例と異なる理解を示す通説の立場では混乱が生ずる。とりわけ,故意の内容を共犯従属性説に従って貫徹させようとする立場では,更に混乱が生ずることになる。

(余談2)

上記の設例の主体を交換し,人間が相手を人間であると誤解して教唆に相当する行為を実行したが,実は単なる人形であり,何もしなかった場合,または,自律的な人工知能型ロボットであり,教唆されたとおりに行為を実行した場合を想定してみると,上記とは別の検討が必要になることに気付くことができる。

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2018年5月 4日 (金曜日)

コモンセンス

「顧問のセンス」のことではない。「小紋と扇子」のことでもない。英語の「commonsense」のことを考えた。

「commonsense」を直訳すると,「共通の認識」または「共通の意識」のようなものとなる。

これは,構造をもつものではなく,合理的な根拠の有無を問わず,直観的な結論の場合を含め,ある判断結果を正当化するために使用される(内容のない)形式的な根拠を示す語句である。

内容がないので,構造をもたず,無論,知識の体系として記述することもできない。

その「コモンセンス」との論拠が説得力をもつか否かは,その場の状況によるとしか言いようがなく,それ自体として何らかの意味をもつとかもたないとかそのようなことは一切関係がない。

仮に学術として「コモンセンス」を考究しようとする場合,それを根拠のあるものとして受入れた相手方の心理状況または脳内の作用と「場」との相関関係を社会関係の一種として考察するのであれば,何らかの意味ある成果を出すことができるかもしれない。

しかし,「commonsense」それ自体を,知識の一種としてとらえる限り,必ず不毛であるという結果に至り,失望する。それが知識工学の一部である場合,必ず失敗する。これ以外の結論はあり得ない・・・という当たり前のことを理解できない者は,相当に頭の悪い者であるので,決して人の上にたってはならない。

それゆえ,若い研究者は,決して「commonsense」を知識の一種として理解してはならない。とりわけ,その構成要素を記述可能であるなどとは,決して考えてはならない。そんな無為になことをやっていては,1度しかない人生に必ず失敗し,あとで悔やむことになる。

このことは,数えきれないほど多数の先人達の死屍累々たる無残な(無意味な)業績の山を丹念に調べてみれば,明白過ぎるほど明白なことだ。

強いて言えば,かつてちょっと流行った「レトリック」という観点から,思考の遊びの一種としてやってみるという程度にして,ほどほどにしておくのが良いと思われる。

以上は,関係的にものごとを考える手法を身につけている人には比較的理解しやすいことだろうと思う。しかし,実体的にしかものごとを考えられない人には無理なことかもしれない。

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