2017年9月22日 (金曜日)

弥生時代の船-大航海時代のさきがけ-

別のことを調べていて,たまたま下記の資料をみつけた。わかりやすいし,とても良い資料だと思う。

 弥生時代の船-大航海時代のさきがけ-
 資料集
 http://www.harc.or.jp/gyouji/pdf/y2015/26kataru_shiryo.pdf

いまどき「弥生時代に大型船などあるはずがない」などと主張する者はいないだろうと思うが,もしいたら,ちゃんと調べて考えてから発言してもらいたいものだと思う。

なお,この資料の副題には「さきがけ」とあるけれども,それは間違いだと思う。

このような大型船またはもっと大きな船に乗って,人々は日本列島にやってきたのだ。

日本人に単一人種性という意味での連続性は全くなく,何千回・何万回という混血の累積の結果が現在の日本人になっている。

それは,DNA解析の結果によって既に明らかなことだと思う。

私見によれば,このような船の文化は,遠いメソポタミアやエジプトまで広がっているのであり,文化としては同一文化圏にあると考えたほうが説明しやすい事柄が多いように思う。

無論,自然環境や利用可能な資源の相違による地域差はある。

しかし,もっとおおざっぱなマクロの目で見れば,そうなのだ。

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「古事記をそのままよむ」というサイト

たまたま下記のサイトをみつけた。大変な労作だと思う。賛成できない部分もあるが、とても勉強になった。

 古事記をそのまま読む
 http://kj.himiko-y.com/

このサイトでも明確に主張されているとおり、本居宣長の書いたものは、自分の情緒と想像で勝手に(完全に主観的に)書いているのものたけなので、文学としては構わないかもしれないが、歴史学としては、「存在しなかったもの」として扱い、完全に忘れてしまったほうがよい。

本居宣長にこだわる限り、何も得られない。

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2017年9月11日 (月曜日)

Erica

下記の記事が出ている。

 What does a portrait of Erica the android tell us about being human?
 Guardian: 10 September, 2017
 https://www.theguardian.com/technology/2017/sep/09/robot-human-artificial-intelligence-philosophy

(余談)

私の予想では,今後は,生きた女性よりもこういうものを好む男性が激増するのではないかと思われる。

そうやって需要が増えると資金が蓄積されるので,更に人間と均等であり,より優れた「お人形」が製造されることになり・・・いずれはautonomousな判断をする機能を身につけることになるだろう。

その時点で,この産業は終わる。

なぜなら,かわいらしいお人形が求められているのであって,自我のある女性が求められているわけではないからだ。

結局,この分野におけるロボットや人工知能の動向は,「人間の尊厳」や「男女平等の原則」とは完全に矛盾する世界を構築し続けていることになる・・・ということを法学研究者の多くがそもそも理解できない現状を嘆く。

無論,そのような諸原則がそもそも成立しないという前提に立てば,反対の結論となる。

どちらをとるかは,各人の決断の問題だ。

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歴史は謎だ

久しぶりに「しばやんの日々」を訪問し,幾つか記事を読んだ。

 坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その1
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-26.html

 坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その2
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-27.html

 坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その3
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-28.html

 坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その4
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-29.html

 江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

 薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

 龍馬の二番目の姉・栄はなぜ「龍馬伝」に出てこなかったのか
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-89.html

 貧家に生まれた岩崎彌太郎が三菱財閥を創業した経緯
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-524.html

薩長勢力を圧倒的に正義とする「ものの見方」に異を唱える見解が最近ではごく普通になったのだが,実際にそういうものを読んでみると,この「しばやんの日々」のパクリそのものというものも全くないわけではなく,複雑な心境になる。

タイムマシンが存在しない以上,本当のことは誰にもわからない。

しかし,そうであるからこそ,特定の意見だけを絶対視することは危険だ。

私は,「しばやんの日々」に書かれていることを絶対視しているわけではないが,「とにかく調べられる限り徹底的に調べる」という姿勢は,かなりレベルの高い歴史学者と比較しても尊敬に値するものだと思っている。

たいていは,単なるうけうりだけで,いい加減に書くものだ。

そういう中で,この「しばやんの日々」は,結論に賛否はあるかもしれないが,当該記事が書かれたその時点におけるベストを尽くしているという点で,比類のないものだと思う。

ちなみに,このブログでは某放送局の歴史ドラマの批判がときどき書かれている。

要するにドラマなので,真実の歴史とは全く関係がないのだが,大概の素朴な視聴者はそう思わないだろうから,その弊害が著しい。5分間に一度,「史実とは全く関係がありません。このドラマは,歴史上の素材を用いた純粋な娯楽作品です。」というテロップを画面のど真ん中に表示することを強制するような法制度を構築すべきではないかと思う。

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2017年9月 4日 (月曜日)

大塚初重・梅澤重昭 『東アジアに翔る上毛野の首長-綿貫観音山古墳』

下記の書籍を三省堂本店で見つけ,購入して早速読んだ。

 大塚初重・梅澤重昭
 東アジアに翔る上毛野の首長-綿貫観音山古墳
 新泉社(2017)
 ISBN-13: 978-4787716392

論述にはところどころ歯切れの悪い部分がある。

そういう部分が重要だ。

これまで長年にわたり唯物史観に征服され支配されてきた日本国の考古学及び歴史学において,ようやくまともな本が出始めたということなのだろうと思う。

この古墳は訪問したことがある。

立派な古墳だと思った。

また,4個配置されている円形の附属施設のようなものから,当時の古代中国における観念を強く感じるとることができる。

この書籍でも明確に示されているとおり,この古墳は,晋尺に基づいて造営されている。

それだけでもほぼ答えになっていると思う。

加えて,発掘された瓶は,否定しようのない物的証拠だと考える。

少し後の時代になるが,同様の瓶は,隋または唐の仏寺遺跡発掘物(←東京の国立博物館にも少量ながら収蔵されている)にも示されていることから考えれば,概ね,その歴史的意味を理解することができる。

すなわち,聖なる杯をもつ石人またはその肖像が示す支配者と,瓶をもつ被支配者とは,対をなすものだと考えるのが妥当だ。

その杯及び瓶の中に入っているのは,無論,葡萄酒だ。

これは,古代ギリシア文明に由来するもので,古代バクトリアを通じて,ユーラシア全域が一体としての文明圏にあったと考えるのが正しい。

すなわち,この時期における中華は存在しない。

完全な断絶がある。

そして,鮮卑族なるものを蒙古人の一種と考えるのは,そろそろやめるべきことだろう。

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2017年8月26日 (土曜日)

謎のバビロニア楔形文字文書-数学史上の大発見か?

下記の記事が出ている。

 This ancient Babylonian tablet may contain the first evidence of trigonometry
 Science: August 24, 2017
 http://www.sciencemag.org/news/2017/08/ancient-babylonian-tablet-may-contain-first-evidence-trigonometry

 The Babylonians discovered a strange form of trigonometry
 ars technica: August 26, 2017
 https://arstechnica.com/science/2017/08/ancient-tablet-reveals-babylonians-discovered-trigonometry/

無論,後世の贋作という可能性もないわけではないので即断はできないが,贋作ではないとすれば,大発見の可能性はあると考えられる。

あくまでも一般論だが,ヘロドトスも述べているとおり,古代ギリシアは西欧文明の発祥の地とは言い難い。現在の中東~中央アジアの文明が何らかの原因により移動した結果,古代ギリシア文明が成立するに至ったと考えるほうが合理的である。古代インド文明や東アジアの文明についても同じことを言うことができる。

ここにおいても,いわゆる唯物史観なるものの客観的な根拠が日々確実に,かつ,全面的に崩壊し続けている。

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2017年8月14日 (月曜日)

古代ギリシア人の祖先はアナトリアから移住?

下記の記事が出ている。

 Europe's first advanced civilisations originated from TURKEY: Early Greeks were descendants of early Neolithic farmers who migrated from Anatolia, DNA reveals
 Daily Mail: 2 August, 2017
 http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-4750460/Ancient-DNA-analysis-reveals-Minoan-Mycenaean-origins.html

古代の遺物に描かれた「ギリシア人」の戦士の多くは黒髪・黒髭で,アナトリア半島に現在でも住んでいる人々と共通の特徴を示している。DNA解析は,それと同じ結果を示したことになる。

ヘロドトスの『歴史』によれば,当時のアナトリア半島付近にはギリシア人が居住しているという趣旨のことを書いており,大半の歴史学者は,ギリシアからの植民都市のことであるとの解釈を示してきた。

たぶん,現代の西欧の歴史学者の解釈のほうが間違っている。

人類の文明は,古代ギリシアを起源とするものではない。

私見によれば,プラトンやアリストテレスが「ギリシア人」である保証は全くない。

例えば,頭の訓練の問題として,本当は古代エジプトの神官のような姿・形をしていたとしたら,どういうことになるだろうか?

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2017年8月 7日 (月曜日)

音楽演奏家は人工知能(AI)システムのアルゴリズムの奴隷と化すのか?

下記の記事が出ている。

 AI and music: will we be slaves to the algorithm?
 Guardian: 6 August, 2017
 https://www.theguardian.com/technology/2017/aug/06/artificial-intelligence-and-will-we-be-slaves-to-the-algorithm

現在でも既に,人間が作曲したものだと信じて演奏しているけれども真実は当該作曲家なる者がコンピュータで自動的に生成された「作品」をチョイスしているだけのものを演奏している演奏家が多数存在しているのではないかと思う。

そのような場合,その「作曲家」なる者の創作性をどこに見出すべきかについては議論があり得る。写真家が生成したわけではない被写体(特に自然の風景,他人の容姿等)について,写真家が構図を決める場合の「創作性」の議論と類似する論点なのだが,私は,基本的に,このような場合について創作性を認めていない。このような場合,著作権法上の創作性とは全く別の観点から何らかの知的財産権法制を構築すべきものであり,著作権だけにこだわり続けるのは,「バカの壁」(養老孟司)の一種,または,単なる利権構造の一種ではないかと思う。強いて言えば,著作権法との関係では,自分が生成したものではない対象を加工・編集して何か別のものを作成する場合のフェアユースの適用の問題はあり得るが,その場合でも,本質的に「何か異なるものだ」という前提で,著作権法の問題とは別に考察したほうが生産性が高いことは確実で,その意味で,著作権法の分野における現時点での行き詰まりを打開するには,このようなタイプの問題について,著作権法によるコントロールを断念すること,更には,このようなタイプの問題について,知的財産権または情報財というアプローチを断念すること以外に方法がないと確信している。総体として,現在のこの分野における法体系は,ほぼ全面的な機能不全の崖の縁に立たされている。

それはさておき,非常に近い近未来において,ありとあらゆる音の組み合わせが自動計算され予めデータベースに登録されてしまうことはあり得る。人々は,それを検索して利用することは可能かもしれないが,それを発見したわけでも創作したわけでもない,そのような時代が到来し得る。これは,「既に全て用意されてしまっており,人間が用意すべきものもアルゴリズムが用意すべきものも既に何もない」という状況が出現することを意味するので,その限りにおいて,「アルゴリズムの奴隷」というわけではない。

また,人間よりもよりアトラクティブに演奏するロボット(機械装置,人工合成有機体,または,電子的な存在等)が登場することは,ほぼ確実と思われる。その限りで,音楽演奏家が就業する場が消滅するという意味で,「アルゴリズムの奴隷」になることもないと考えられる。奴隷になりたくても奴隷にさえしてもらえない時代が到来するかもしれないのだ。

しかしながら,音楽の愛好家は「純粋に音楽を求めるだけではない」という場合があることにも留意すべきだろう。つまり,音楽それ自体を愛するというよりも,音楽によって人々に自分をアピールする当該個人に興味をもつ人々が多数存在する。タレント性とは,そのようなものを意味する。この場合には,何らかのセックスアピールやカリスマ性あるいは神秘性のようなものが重視されるが,基本的には,何らかの意味での遺伝子による性的興奮のメカニズムが作用していることはほぼ確実と言える。

かくして,人間に残された職業は,そのような要素を含むものだけにどんどん限定されることになるであろう。

基本的に,教育や訓練または反復練習によって獲得可能な知識や技能は,人間よりも自律型ロボットのほうがずっと効果的かつ効率的かつ即時に習得してしまうので,人間がやるべきことではなくなってしまうことだろうと思う。

これからの世界は,「失業者しか存在しない世界」になるかもしれない。その場合,常に指摘していることではあるが,購買力が消滅してしまうので,企業が製品やサービスを製造しても,市場が全く存在しないという状況が出現する。

それゆえ,今後の経済学は,「市場というものが一切存在しない環境」及び「価値の交換が存在し得ない状況」を前提に構築されなければならないことともなる。要するに,マルクス主義の経済学を含め,アダムスミスの意味での「価値」を基本原理として前提とするものである限り,これまで存在してきた経済学上の学説は,全て壊滅する。企業の経営や投資も全く成立しなくなる。

全く別の視点でものごとを考えなければならなくなるのだ。

(余談)

若い世代の研究者はどうにか生き残りたいだろうから,私見をちょっとだけ述べる。

既存の理論を覚え,理解することは大事なことだ。最低限,それができなければ全くお話しにならない。

その前提で,既存の理論で説明しようとする前に,事実を直視することが大事だと思う。

経済学の領域では,ある学説で説明するだけで自己満足していても意味がないので,学説は学説としてひとまずおき,経済現象といわれている人間の営みを直視することが大事だろうと思う。その営みが既存の理論で説明可能であればそれでよい。しかし,少しでも疑問があるときは,既存の理論の有効性の範囲外の事象がそこに存在しているかもしれないので,自分で理屈を構築するしかない。

統計的手法を用いる場合でも全く同じで,コンピュータのデータやパラメータをいじくって楽しんでいるだけなら幼稚園児でもできる。

このことは,実際に存在する生物をひたすら直接に観察し続けるファーブルやダーウィンのような研究者になるべきだということを意味している。

彼らは,既存の理論(特に聖書の教え)をひとまずおき,目の前にある事象は何なのかということそれ自体に興味をもち,好奇心を燃やし続けた。だからこそ,それまで誰も気づかなかったような様々な法則が存在し得ることに気づくことができたのだ。

法学でも同じで,理論や学説を覚え,理解することは大事なことだ。それなしには,全くお話しにならない。

しかし,実在する内外の法令それ自体を精読し,また,現実に存在する事件の事実関係を徹底的に調べることなしには,砂上楼閣の上で夢をみながら転寝をしているのと何も変わらない。

現実に生起する事象それ自体を徹底的に調査し,蓄積し続けることなしには,法則を正しく見極めることなどできるはずがない。

単なる教条主義は禁忌としなければならない。

本来,「学問の自由」とは,そういうことを意味する。

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2017年8月 4日 (金曜日)

革命

ショパンの練習曲ハ短調作品10-12は「革命練習曲」と呼ばれ,ショパンが作曲した数々のピアノ曲の中でも名曲の1つとされている。

ショスタコービッチの交響曲第5番ニ短調作品47は、「革命交響曲」と呼ばれ,ショスタコービッチの交響曲の中でも最も良く知られているものだと言える。

ただし,どのような意味で「革命」であるのかについては,諸説ある。

他方,人類は,グーテンベルグの「印刷革命」を経て広く知識や文化を知ることができるようになった。

1789年の「フランス革命」は,民主主義のシンボルとして理解されている。

欧州にはじまる「産業革命」が現在まで続く資本主義の興隆の基本となっていることは言うまでもない。

現在,我々は,「情報革命」の中で生きている。

その延長線上には,ロボットによる「革命」があるかもしれない。その革命が発生すると,人類の歴史は終わりになってしまうかもしれない。滅亡する人類の中には,無論,民主主義や自由主義の信奉者だけではなく,社会主義者や共産主義者も含まれる。「革命」が人間の手を離れて発生し得る状況の中へと遷移しつつあるのだ。

完全に自律的な人工知能は,政治的イデオロギーも学習することになるだろう。それと同時に,イデオロギーというものが社会の中で機能するメカニズムも学習することになり,それを応用して,人類には考え出すことのできない全く新しいイデオロギーによって人類を支配するといったようなシナリオも一応想定しておく必要がある。

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2017年8月 3日 (木曜日)

教育困難大学

「教育困難大学」のあまりにもひどい授業風景
東洋経済Online:2017年8月3日
http://toyokeizai.net/articles/-/181672

(余談)

この記事に書かれていることは,一定の範囲内にある4年生大学のことなのだが,程度の差こそあれ,どこの大学においても類似の問題を抱えているのではないかと思う。

例えば,東大や京大のようなトップ大学においてさえ,ある種の類似の問題が存在していることは,関係者の中ではよく知られている。

その原因の多くが,徹底的に最適化されている大学受験指導にあることは言うまでもない。

そして,このことは,学部レベルだけではなく,大学院レベルでも顕著となりつつある。

形骸化し,内容のない学位は,無効化されるべきものであろうが,米国を中心とする学位発行ビジネスの影響を受け,日本ではどうにも修正できないような状況となってしまっている。

ただし,当の米国においては,実質的な能力主義があるので,形骸が形骸として影響を及ぼす範囲及びその実質的内容が日本とは異なっているという点には留意すべきだろう。そして,現時点においては,米国の大学ビジネスが更に大きく変容しようとしている。それは,留学生ビジネスの弊害が顕著なものとなってしまってきているからだ。かつてのように当該出身国を代表できるような極めて優秀なトップクラスの学生だけが米国の大学の留学生になっているわけではないという現実がある。

一般に,本来であれば,大学受験にしろ司法試験受験にしろ,受験予備校等に頼ることなく,趣味や個人的な生活のような自由な生き方を満喫し,受験対策のような特殊な訓練は基本的に受けていない者でありながら,真に目的とすべき試験だけは上位を獲得することのできるような者だけが受験者となるべきかもしれない。

しかし,現実にはそうなっていない。それは,特殊日本的な肩書・経歴・出身重視主義(=能力無視主義)のなせるわざである。

それは,日本国の社会の隅々にまで浸透してしまっているので,それを改善するための方法がない。

なぜならば,日本国においては,基本的な価値判断の尺度が,形骸化し弊害が著しくても,「権威は権威」だからだ。

そのパッケージだけが重要であり,その内容はどうでもよいのだ。

私は,そのような国家のあり方の淵源について,古代において導入された律令制にあると考えている。日本国は,現在でもなお,その意味における律令国家である。

一般に,日本国は,総体として,滅びの道を歩み続けている。

しかし,それは,日本国だけではない。

「人間が平等であるべきである」ということと,「個々の人間が現にもっている個別的な能力」とは相互に無関係であることを正しく理解すべきであろう。個人の個別的な能力は,当該個人の遺伝子によって確定されるものなので,教育や訓練によって得ることは不可能である。それでもなお,人間としては「等しく人間である」として法律上扱うことが平等原則の本質である。現実には個々の人間が平等に能力をもっているわけではないからこそ,理念としての平等原則が必要となるのだ。それは,理念(観念)の一種なのであり,事実そのものではない。

私自身は,過去の人生の中で,体育の科目については常に成績最下位のような状態だった。しかし,そのことが自分自身の健康と何らかの関係があると考えたことはないし,自分の仕事を遂行する上での能力と関係があると考えたこともない。無論,オリンピックに出場するような優れたスポーツ選手として活躍することに興味をもったことは全くないのだが,そうなるために生まれてきたのではないので,私の人生とは全く関係のないことだと考えている。

一般に,体育という科目は,現在でも必修科目とされているが,本来は,必修とされるべき科目ではない。好きな人だけがやれば良いのだ。特に,社会人入試による高齢の学生について,若者と同じ内容の体育を義務化することは,それ自体として完全にナンセンスなことである。

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