2025年10月25日 (土曜日)

DACS:AIの時代における透明性,公正性及びクリエーターの権利の尊重に関する共同声明

下記のとおり,共同声明が出ている。

 Our joint statement calling for transparency, fairness and respect for creators’ rights in the age of AI
 DACS:Posted on 16/10/2025
 https://www.dacs.org.uk/news-events/joint-statement-on-creators-rights-in-age-of-ai

***

私は,基本的に賛成だ。

世界各国の著作権法制に完全に精通していないAI関連企業の経営者及びAI関連組織の代表者は,特に米国流のフェアユースしか知らない者は,ちゃんと勉強すべきだ。それらの人々は,自分のことを非常に優秀だと宣伝しているので,1週間もあれば世界中の全ての著作権制度に精通することなど簡単にできることだろう。

しかし,現実にはそのような経営者などいるはずがない。

そこで,各国とも,例えば,当該企業や研究組織の前年度における全世界の総売上高を上限とする行政上の制裁金制度を早急に導入すべきだと考える。
そのような制裁金による国庫収入は,零細であるために訴訟を起こすこともできないクリエータに分配すればよい。

***

基本は簡単だ。

人間がやってはいけないことは,AIシステムが自動実行することも許されない。

***

学習することそれ自体は,一般的には,各人の自由かもしれない。

しかし,企業秘密のようなアクセスが禁止されている知的財産権にアクセスすることは禁止なのでそもそもそれを学習することが許されない。

また,人間による学習の場合,脳内の記憶能力に限界があるので,著作権侵害の程度・範囲にも自ずと制限が称する。ところが,理論上では無限に記憶領域を拡大できるコンピュータシステムでは,たった1人のAI企業の経営者によって世界中の著作物がシステム内に格納され,潜在的に著作権侵害の状態でスタンバイするという状態が発生する。

つまり,AIによる知的財産権の侵害による潜在的な影響度は,個々の人間による場合とは全く比較にならないほど大きなものであり,いわば全人類を死滅させる文化的な生物化学兵器のようなものだと言える。

立法者は,そのことを正確かつ冷静に理解し,この問題に対応するため,適切に立法すべきだ。

 

| | コメント (0)

2025年8月30日 (土曜日)

生成AIを使用し続けると生成AIを使用できなくなるかもしれない

AIを応用した自動翻訳に頼り続けていると,利用者である人間自身の脳内で思考することがなくなるので次第に外国語と日本語の対応関係のみならず日本語の語彙と文法を吟味する機会も薄れるようになり,要するに,日本語の能力が次第に低下することにより,AIにより生成された翻訳文が内容的に正しいものであるか及び日本語文として正しいものであるかを検証する能力が低下または喪失する。

検証できない以上,正常に利用しているとは言えない。

この自動翻訳の例のように,一般に,生成AIを使用し続けると生成AIを使用できなくなるかもしれないというパラドックス的な仮説は成立し得る。

現実に,日本人全体における日本語能力が著しく低下し始めており,普通の日本語文を普通に読んで理解することが困難な者が増えているように思う。

それではそのような者の英語能力が向上しているかと言えば,それは逆であり,自動翻訳に依拠しているため,その利用者の脳内の英語処理能力は壊滅してしまうことになる。
リアルな対面という状況下では,普通の簡単な挨拶さえできなくなってしまうことだろう。

***

どんなに優れたスポーツ選手でも,鍛錬を怠ると,たちまち劣化し,場合によっては普通の人よりもダメになってしまうことがある。

どんなに頭脳明晰な人でも,勉強を怠ると,たちまち劣化し,場合によっては何も思考できなくなってしまうことがある。

若年性認知症としてひとくくりにされてしまっている症例タイプに属する人たちの中には,何種類かのタイプが混在しているように見える。

 

| | コメント (0)

2025年8月29日 (金曜日)

発達障害

私自身は,「絶対値としての発達障害は存在しない」という立場だ。

相対値としての発達障害という観念が存在することは認識している。

しかし,私は,ガリレオの例をひくまでもなく,「多数派であることが常に正しい」という考え方には依拠していない。

それゆえ,「発達障害」の観念に関し,相対的な評価または観点の相違の一種としてしか理解していない。

無論,精神医学上において「発達障害」を疾病の一種とする考え方があるとすれば,そのような考え方は,受精により新たな遺伝子の組合せが発生しするという生物種としての人間の発生における本質を全く理解していないという意味で,また,遺伝子が支配する機能が有効なものとして発揮されるかどうかは,個々の具体的な環境に適合しているかどうかという偶然的な要素(運・不運)によって支配されており絶対値ではないということを理解していないという意味で,そして,そのような遺伝子による基本的な能力を発揮できるようにするためには当該個人の不断の努力と経験の蓄積を要すが,その程度,期間及び自己満足度は極めて個性的・個別的であり,どれが正しいとか悪いとか評価することがそもそもできないということを理解していないという点で,根本から間違っている・・・と考えている。

例えば,世間において平均的または標準とされているグループをAとし,そうではないグループをBと呼ぶことにする。

Aは,平均値で示されている年齢において平均値で示されている能力を発達させておしまいで,それ以上の発達があり得ない遺伝子をもつ人々であるかもしれない。
これに対し,Bは,極めて優れており,死ぬまで能力を増強し続けるかもしれないのだけれども,多くの点において平均値に収まらないがゆえに,Aからは敵視されまたは無能と評価されることになるというだけのことに過ぎないのかもしれない。

しかしながら,このことはなかなか理解されない。それゆえ,人類は,何百年経っても少しも進歩せず,同じ誤りを繰り返している。

他方において,基本的な価値感を異にするグループ間では,相互の評価が逆になる。

例えば,特定の「人種」だけが優秀だと確信している人々とそうではない人々とが理解し合うことは不可能なことだ。
Bであれば人生の途中で価値観を変更することがあり得るが,Aは平均値しか認めず,自分の生育環境における平均値である宗教観や世界観しか受容できないので,偏見や誤謬を修正できない。
それゆえ,Aが存在しており,かつ,Aが圧倒的な多数派である限り,そのような単なる自己満足とその反作用としての嫌悪を基礎とする偏見に起因する(自己とは異なる属性をもつ集団に対する)ジェノサイドを避ける方法は存在しない。
ただし,Bはばらつきが大きいことを当然の前提とする属性をもつ集団を示しているので,Bに属する者の中にはAの集団に属する者よりもずっと(相対的な意味で当該社会において)危険な要素をもつ者が含まれている可能性は否定できない。ただ,通常は多数派ではないので,国家の平時の警察活動によって抑止可能な範囲内になるというだけのことに過ぎない。

人類の未来は,極めて暗い状況の下に置かれている。

ちなみに,私は,遺伝子上で特別のたんぱく質またはアミノ酸配列の構造をもつグループという意味での「人種」は存在しないと理解している。遺伝子レベルにおいて,雑種ではない個人は存在しない。

***

「裸の王様」の寓話は,貴重だと思っている。

知識を集積しなければ正しい認識や理解に達することができないわけではない。

認識や理解を得ていても,面子や欲望のために,自己の決定を変更できない者は,(国家のトップを含め)いくらでもいる。

正直者が正直に言論することが権力者や悪人達によって弾圧されるようなことは,常にある。

何兆円もの資金を投入して開発されているAIシステムは,機械的な反復作業の自動化処理以外の分野では何の成果もあげていない。
LLMによって世界中のデータを記録したとしても,それは,本当は「学習」ではなく,単なる「記録保存(storage)」に過ぎないので,少しも知能にならない。
ニューラルネットの考え方及びその実装は,人間の本当の思考というものを知らない人々が考え出した単なる仮説とその実装に過ぎないので,人間にはなれない。

もし人間の思考というものを真剣に考えたことがあるのであれば,少なくともAIのエンジニアになることを考えることはないだろう。
ただし,素人企業家の多くはAIの本質を知らないので,そのような無知な企業家達を騙してAIシステムの開発資金名目で出資させ,金儲けすることを企む者は出てくるかもしれない。
この点でも「裸の王様」は貴重な作品だと思う。

 

 

| | コメント (0)

2025年8月28日 (木曜日)

生成AIの生成物は独自の著作物となるか?

生成AIのアウトプットそのものではなく生成AIの補助を得つつも(例,背景部分のベタ塗り処理の自動化のようなあくまでも付随的な部分の自動処理),基本的には人間の脳と手により新たに生み出された作品である限り,その作品が著作権法の定める著作物である得ることに関しては,異論がないと思われる。

生成AIのアウトプットそれ自体の著作物性に関しては議論があるが,(私の「処理主義」の理論に依拠することなく,通説である「意思主義」の理論に立脚する限り)人間の創作物とは言えない純粋に自動性に生成されたアウトプットや人間の指揮命令と無関係に生成されたアプトプットは,自然現象の一種であり,人間が創作した作品ではあり得ないので,「創作物」ではあり得ず,従って,著作権法によって保護される「著作物」または「実演」等にはなり得ない。

そのようなアウトプットが既存のどのデータとも異なる新規のものである場合,模倣でも二次利用でもないことになる。
しかし,そのようなアウトプットは,自然現象の一種である以上,現行民法上では無主物の一種ということになり,それゆえ,無主物先占の理論によってものごとを解決することになる。
そのように解する場合でも,単なるデータとしてのアウトイプットを保護する法令が存在すれば権利が原始的に発生するというだけのことであり,そのような法令が存在しないときは,誰の権利にも服さない「単なるデータ」ということになる。

生成AIのアウトプットがコラージュの範疇に属するものである場合,(米国ではともかくとして)日本国の国家主権が及ぶ範囲内においては,マッドアマノ氏の作品をめぐるモンタージュ写真事件の最高裁判例は現時点でも有効なので,新たな著作物として成立することはなく,他人の著作物の改変または模倣に過ぎないということで既に確定しているので,このようなタイプの問題に関しては議論の実益が乏しい。

生成AIのアウトプット著作権法の定める二次利用による派生物(編集物,翻案物,翻訳物等)である場合,現行の著作権法の関連条項に従っている場合に限り,当該条項が定める法律効果の範囲内で,新たな著作物として保護を受け得る。
著作権法の定める法律要件を満たさない場合,著作物のない単なるデータに過ぎない。

例外は,営業秘密として保護されることがあり得る場合のみと考えられるが,営業秘密は不正競争防止法上の権利であり,著作権法の定める権利の一種ではない。

生成AIのアウトプットが著作権法上の引用に該当するためには,著作権法に定める引用のための法律要件をすべて満たしている必要があるが,現実にはそうではない。
ほぼ全てのGPTアプリやGPTサービスからのアウトプットは,正当な引用とは認められず,違法である。このことは,既に何度も主張しているとおり。加えて,著作権法の定める人格権の保護も考慮しなければならない。
その観点からは,例えば,Google検索の「要約」なるものは,ほぼ常に,引用の要件を満たさず,かつ,著作者人格権を侵害する違法なアウトプットであるので,全て削除されるべきであり,要件を満たさない仕様である限り,サービスの提供それ自体を全部廃止すべきである。
適法であるためには,その資料を学習し,模倣または引用したのかを,出典を明記すべきである。
LLMによる学習対象となる既存のデータが1つしかないときは,その単一の資料を無権限で模倣・改変して自動生成された生成物を公衆送信可能化していることになるので,適法行為になることがない。絵画作品等では現実にそのようなことが起こり得る。写真の創作物性に関しては,通説によれば(←私見は通説に反対),自然物である山河を撮影したような写真であっても構図のとり方に創作性があれば著作物であると解している。そうすると,構図のとり方を学ぶだけで違法行為であることになるが,そのような考え方は,アイデアそれ自体を保護するのと同じことになるので認められない。構図のとり方ではなく,当該写真を描画作品として印画紙上またはデジタル媒体上に固定化したことに創作性の淵源を見出すべきである。

まとめると,著作権法の定める法律要件を充足しないアウトプット,基本的には,全て違法な模倣物または改変物である。

有料のサービスにおいて,法理論的には著作権がないアウトプットを著作権のあるものとして課金する行為は,詐欺行為となる。
それが故意ではなく過失による場合であっても,刑事上で詐欺罪として処罰されることはないにしても,民事上は不法行為に基づく損害賠償請求の原因となり得る。
世界中の全ての事業者は,間違って詐欺行為となってしまわないように,善良なる管理者の注意義務をもって事業を遂行しなければならない。

***

なお,日本国の著作権法は,立法それ自体が完全に間違っており,基本的な国際条約における「works」を「著作物」としていることが人々の頭脳を劣化させている。「works」は,全て「作品」と置き換える法改正が必要なのだが,あまりに多数の箇所の改正が必要となるので,いったん廃止し,全部書き換える法改正を実施すべきだ。

このことは,これまでも何度も主張してきたことなのが,日本国の何人かの学者(法学研究者)等は私見に反対。英語を読み理解する能力がないせいではないかと推測される。法学研究者ではない学者に関しては,著作権法に関して無知なので,議論してもはじまらないと理解し,全て無視している。

 

| | コメント (0)

2025年8月26日 (火曜日)

サヴァール指揮によるブルックナー交響曲第0番

サヴァール指揮によるブルックナーの交響曲0番の演奏を収録したCD(AliaVox AVSA 9963)を購入し,繰り返して何度か聴いた。

この演奏それ自体は別の機会に既に聴いており,とんでもなく素晴らしいものだと思っていた。

購入したCDを異なる何種類かの条件で再生してみて,やはり素晴らしい演奏だと思った。

私見では,交響曲第0番は,それ自体としては,やはり完成度の低い作品だと思う。ここから出発して何曲もの交響曲を書き,その経験に基づいて,第7番~第9番という誰にも真似できない至高の作品を産みだすことができたのだと思う。地道な努力の蓄積がなければ,そのような素晴らしい結末に至ることはできない。

サヴァールの演奏を収録したCDは結構たくさんもっており,どれも興味深いものばかりだ。

このブルックナーの交響曲0番の演奏を聴いてみて,(かつてのアーノンクールがそうであったような)ある種の転機が来ているのではないかと思った。

ちなみに,CDに附属しているブックレットは極めて高い価値のあるものだと思う。

 

| | コメント (0)

2025年8月24日 (日曜日)

U2:Where the Streets Have No Name

かなり久しぶりでU2の「Where the Streets Have No Name」を聴いた。

素晴らしいの一言に尽きる。

かつて聴いたときとは異なり,演奏の細部の完璧さを理解できるようになった。

そして,歌詞の内容がもつ普遍性を理解できるようになった。

 

 

| | コメント (0)

2025年8月18日 (月曜日)

プロコフィエフ「賭博者」

先日,NHK-FMオペラ・ファンタスティカというラジオ番組を聴いていたら,ドストエフスキー原作でプロコフィエフが作曲したオペラ作品「賭博者」という作品の演奏が流れた。2024年のザルツブルグ音楽祭における演奏なのだそうだ。

不勉強にして,このようなオペラ作品があるということをこれまで全く知らなかった。初めて聴く作品。

内容も演奏も素晴らしいの一言に尽きる。

この作品のストーリーでは,トランプの賭博に狂う人々のことが描かれているのだが,トランプを仮想通貨(暗号資産)の投機(投資)に置き換えてもそのまま完全に意味が通じるという意味で,その内容において普遍的な価値をもっている。

素晴らしい。

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2025年7月29日 (火曜日)

文系と理系

世間には,「文系だから・・・」または「理系だから・・・」ということにこだわり過ぎる人がまだ存在するようだ。

かつて,血液型性格診断なる荒唐無稽な屁理屈が流行ったころに「A型人間だから」または「B型人間だから・・・」等とこだわった人たちとあまり変わらない。ABO式による血液型の区分は無数にある識別基準または指標の一つに過ぎない。ABO式の区分だけで全てが決定されるということが科学的に証明されたことはこれまで一度もない。

さて,文系と理系の区分は,本来的に無意味なものだ。

古い時代においては,文系と理系の区分など存在せず,全ての学問分野が「哲学」または「神学」の中に包摂されていた。
日本国の幕末における蘭学者の中にはそのような包括的な知性をもつ天才または天才に近い人材が多数認められる。

日本国においては,文系と理系の区分は,明治維新当時における富国強兵という目的を実現するために採用された手段的な概念であり,包括的な知性をもつ人材ではなく,部分的な知識を習得するだけで当該分野においては専門家として扱われ得る人材を速成栽培するために用いられた一時的な緊急対応策の一部だったと考えられる。

産業革命以降における大規模工場の工程を細分化し,細分化された工程を習得した人材を有能な人材として扱う産業上の社会構造がそのような国家レベルにおける教育姿勢または教育目標を支え続けたとも言える。

そして,現在でもなお,世界の産業構造はそのようなものなのかもしれないし,(受験予備校的な)内容空疎な丸暗記型思考しかできない人にとっては,理系と文系の区分が「真理」の一部であると信じられているかもしれない。

しかし,時代は変わった。大量生産方式を基礎とするようなタイプの資本主義は(建前上の国家体制が社会主義または共産主義の国家における実質的な意味での資本主義を含め)終焉の時を迎えつつある。

AIという文脈で現在の世界を見渡してみると,(日本国という極東の小国の文部科学省が採用している「理系と文系」という区分など完全に無視して)米国や中国の巨大なAIシステムは,全ての種類のデータを網羅的にどんどん呑み込み続けている。

そのようにして収集されたデータは,理系や文系という区分とは完全に無関係に,当該システムの設計者が想定した知識構造の仮説に基づいて処理され,有用性が確認されれば,その仮説は,その仮説を実証する統合されたデータ群であるモデルという表現形式により使用されることになる。

しかし,一般に,根本的に誤った仮説に基づいてデータが収集されるような場合においては,そのようにして収集されたデータを基礎として統計上または確率論上の何らかの有意な関係が証明されたとしても,土台となっている世界観(仮説)それ自体が最初から荒唐無稽であるので,また,誤った仮説に従って事前にフィルタされたデータのみを基礎として確率論の計算等が実行されるので,それらの証明それ自体が全く何の意味ももたないものであることが明らかだ。

統計学が常に正しいとすれば,ガリレオが生きた時代において,バチカンが絶対的に正しく,ガリレオは狂人または悪魔であったことになる。

しかし,本当はそうではないということは,(確率論によってではなく)長い時間の経過によって人々が普通の知識にアクセスできるようになったことによって常識のものとなった。
もっとも,ダーウィンのいうような意味での適者生存論または自然淘汰説に関しては,聖書の教えに反するとして禁止されている地域が現在でも多数存在している。

現在のアメリカ合衆国で起きている科学技術上及び政治上の出来事をできるだけ多角的に理解しようとするときは,そのような包括的な観点からの考察も必要だと考える。

***

『モナリザ』の作者として有名ではあるけれども諸学とその実践に通じていた天才の一員であるレオナルドダビンチは,理解でも文系でもなく古典的な意味での総合学としての哲学の人だったと言える。

意味なく理系と文系とを区別したがる人は,このことをどのように考えるのだろうか?

 

| | コメント (0)

2025年5月 1日 (木曜日)

『ゲッベルス-ヒトラーをプロデュースした男』

ヨアヒム・A・ラング監督の映画作品『ゲッベルス-ヒトラーをプロデュースした男』が劇場公開中のようだ。私はまだ見ていない。

この映画に関しては,演じた俳優が本人とは似ていないよいうようなタイプの(俳優は本人自身ではないので当たり前に起きることを理由に難癖をつける)空虚で有害な評論もあるようだが,私は,この時期にこの映画が制作され,公開されていることに意味があると考える。

似たようなタイプのよりリアルな映画作品として,アリ・アッバシ監督の映画作品『アプレンティス-ドナルド・トランプの創り方』がある。素晴らしい。

なお,同様または類似の傾向性の強い人物は,日本人の中にも結構多数存在する。これまでの人生の中でさんざん苦労させられた。

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2025年1月 8日 (水曜日)

米国において偽情報のファクトチェック等を廃止するとどうなるか?

カウンターとして,特定の国からのサイバー戦の一部としての偽情報のポストが圧倒化する事態が発生するかもしれない。

海外との通信回線を切断しても,自律的なAIエージェントのような秘密モジュールが既に無数のスマートフォン等内に格納されており,それらが起動すると手のつけられないような状況が発生し得る。

他方において,洗脳されやすい人々が暴徒化し,米国が内戦状態に陥ることはあり得る。その内戦の過程において大統領も当該企業の代表者も惨殺されるということがあり得る。秩序が維持されていれば,内戦勃発の確率が低下し,また,悲惨なことが起きる確率も低下する。

治安の崩壊を防ぐためには,インターネット上の偽情報の抑止が必須であり,プロバイダに対してその義務を負わせることも必須である。もし当該プロバイダにはそれができないというのであれば,当該プロバイダは廃業すべきだろう。

表現の自由は,治安が維持されているときにおいてのみ成立する。

治安が存在しない社会では,ほぼ全ての自由が蹂躙され,ほぼ無意味化または空文化する。

社会の支配的立場にある者は,当然のことながら,そのようなことを正しく理解すべきだ。

 

 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧