2017年2月19日 (日曜日)

ゼミ生の投稿論文が優秀賞

私のゼミでは,ゼミ生に論文を書かせ,雑誌に投稿することを義務づけている。卒業論文の代わりになる論文を共同で作成させるということを目的としている。

楽して卒業してもろくなことがないので,苦労しても学生の間に学べることは学んだほうが良いと考えているし,自分の考えをまとめて文章にする訓練もさせておいたほうが良いと考えている。

学生達は,前期(春期)に各自で研究した成果をまとめたレポートをもとに,後期(秋期)では1本の論文にまとめなおすという共同作業をし,それを通じて,社会に出てからの共同作業のための練習をする。

私は,指導教員として,内容に不満足な点があっても口出ししたり添削したりは一切せず,よりよく考えるためには何を調べ,何を読むべきかについてアドバイスだけ提供するという方針でやってきた。

2016年度の投稿の審査結果について本日の教授会で報告があり,ゼミ生の投稿論文が優秀賞に選ばれたことを知った。

学生たちの研究成果を認めてもらうことができ,私の責任を果たすことができた。素直に嬉しい。

  自動車の自動運転に関する法的問題-製造物責任の観点から-
  唐亀侑久(ゼミ長)
  井上優哉
  馬場健志郎
  須藤美有(春期のみ・秋期はスウェーデン留学)

この論文は,法学会誌に掲載される予定。

(余談)

優秀賞を受賞すると,副賞として一定の金員が授与される。

その資金は,大澤芳秋氏という篤志家の方からの寄付金によっている。何ともありがたいことだと思う。

入賞し,賞金を受けることについて,学生達の努力と事情を知らない人々からは「賞金で宴会でもやるのか」とからかわれることがある。

しかし,この賞金は,学生が受領すべきもので,私はただの1円ももらっていない。

事情を全く知らないのに,一体どういう神経をしているのか,自分の著しく低劣なレベルで他人を評価してほしくないと思うのだが,人間関係を重視し,「この金額では,銀座で豪遊は絶対に無理です」と言って笑って済ませることにしている。

しかし,今回の学生は,内外の文献を調べるために,受賞により得る金額よりもはるかに高額の支出を既にしている。

「本当に学問をしたいのであれば,身銭をきっても学問をする」というのが学問の本来の姿なのだが,学生にそれを強いてしまっているのは私の資金不足によるものなので,学生にはすまないと思っている。

そういう事情があるので,受賞により得る賞金を考えても,今回の論文作成の収支決算は,明らかに大幅な赤字になっていると私は評価している。

その学生達の経済的な負担は,受賞という名誉によって購われたことになるだろう。

どの学生も協力してこの論文を仕上げたのだが,特にリーダーとして頑張り続けた学生は,非常に成績優秀であり,かなり著名な良い企業に就職が決まっている。きっと,その企業において,大いに活躍してくれることだろうと思う。

受賞した論文の内容や論理の運びかたについては,私なりの意見がある。私のレベルで評価すれば,資料の選択や内容の理解等に問題がないわけではない。もし私が同じテーマで論文を書いたとすれば,かなり様子の異なるものとなったことだろう。

しかし,そういうことはどうでもよいことだ。

私は,学生の自主性を尊重する。

学生が自分で必死になって調べ,考え,大学生としてやることのできるベストを尽くしたのだから,それだけで十分に立派なことだと思う。

今回受賞した学生達が更に精進と研鑽を重ね,満足すべき人生を自分の手で掴むことを心から祈る。

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2017年1月11日 (水曜日)

米国:大学に対するランサムウェアを用いた攻撃

下記の記事が出ている。

 US college pays $28,000 to get files back after ransomware attack
 Naked Security: 10 January, 2017
 https://nakedsecurity.sophos.com/2017/01/10/us-college-pays-28000-to-get-files-back-after-ransomware-attack/

[追記:2017年1月14日]

関連記事を追加する。

 This college just paid a $28,000 ransom, in bitcoin, to cyberattackers
 Washington Post: January 13, 2017
 https://www.washingtonpost.com/news/grade-point/wp/2017/01/13/this-college-just-paid-a-28000-ransom-in-bitcoin-to-cyberattackers/

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2017年1月 9日 (月曜日)

英国:教育機関に対するランサムウェアによる攻撃

下記の記事が出ている。

 Ransomware sleazeballs target UK schools
 Register: 6 January, 2017
 http://www.theregister.co.uk/2017/01/06/ransomware_crooks_target_schools/

 This ransomware scheme is targeting schools, colleges and head teachers, warn police
 ZDNet: January 6, 2017
 http://www.zdnet.com/article/ransomware-scheme-is-targeting-schools-and-colleges-warn-police/

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2016年12月27日 (火曜日)

教育の分野もAI化するか?

下記の記事が出ている。

 Could online tutors and artificial intelligence be the future of teaching?
 Guardian: 26 December, 2016
 https://www.theguardian.com/technology/2016/dec/26/could-online-tutors-and-artificial-intelligence-be-the-future-of-teaching

「教育(education)」と「学習(learning)」の定義の問題かもしれない。

従来の日本においては,単なる「訓練(training)」または「再生産(reproduction)」に該当する営みのことを「教育」と呼び,国民に押し付けてきた。富国強兵策の残滓というべきものかもしれないが,元来,産業革命後の社会というものはそういうものなので,単純に指揮命令に従うある程度までの知識をもった画一的な労働者が多数必要だった。その需要を満たすための国家制度であるということができる。このことは,資本主義の国でも社会主義または共産主義の国でも変わらない。

しかし,産業革命時代的な労働の中で物理的な動作を要するものは産業用ロボット(Robotics)で代替されつつあるので,この分野では人間が必要なくなるし,また,機械的労働能力を再生産するための「教育」も必要がなくなる。では,事務系はどうかというと,計算処理可能な問題についてはAIで置き換えられつつあるので,いずれ人間も必要なくなる。

すると,AIによって教えなければならない項目もなくなってしまう。AIが自己学習能力によってAI自身だけが常に人間に対して優位になるように自分自身のプログラムを書き換え続けデータを蓄積し続けることになるだろう。このデータの蓄積が限界に達するまでは,人間がAIのためのパーツとして使役されることになる。これが最後の労働となる。

そのあとは,人間が一切必要なくなるし,人間が得られる職業もなくなってしまうので,自然と人類は消滅することになる。

結局,AIの進化によって産業革命の時代は終わる。そして,人類の歴史も終わる。

ただし,歴史をもたない動物としての「ヒト」は残るかもしれない。

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2016年12月14日 (水曜日)

情報セキュリティ教育

下記の記事が出ている。

 Cybersecurity skills aren’t taught in college
 CIO: December 13, 2016
 http://www.cio.com/article/3149098/it-skills-training/cybersecurity-skills-aren-t-taught-in-college.html

(余談)

技術に関する専門的な事項については,工学部等の理系学部で教えるのが適切なのだが,法学部においても技術に関する基礎的な知識を提供する科目が必要だ。技術の発展に伴い,技術について適切な知識を有していることを前提にしなければ法解釈をすることが不可能な分野が急激に増大しているからだ。教養過程で一般的な知識を提供するだけでは全くダメで,技術上の知識と法的素養とを連結するような科目が多数必要になる。

明治大学法学部ではそのような目的を実現するために法と情報コースを設置し,これまで有意な人材を多数育ててきた。

他方で,情報法やサイバー法の分野を含め,技術に関する基礎的な素養があることを前提とした上で,現代社会における新たな法現象や法規範について専門的に研究する研究者を育成し,海外の最新の立法についてリアルタイムでどんどん比較法研究をすることのできる研究者の集団をつくることも大事なことだし,そのような基盤があってこそ,情報関連企業のビジネスやマネジメントと連携した政策論等を形成することができる。

加えて,個人データ保護指令95/46/EC及び一般個人データ保護規則GDPRへの対応という観点からは,情報セキュリティの基本に関する素養を正しく身につけ,しっかりとした法解釈やマネジメントシステムの運用をすることのできる人材が大量に必要となる。そのような素養のある従業員を法務担当として採用しない企業は苦戦を強いられるか,コンサルタント企業に言いなりになるしかないだろう。法学部において,そのような社会的需要に応えることのできる人材を1人でも多く養成しなければならない。

明治大学法学部の法と情報コースは,そのようなものであることを目指してきた。

そして,今後の社会は有機と無機の境界がなくなり,人間と人間でないものとの境界もなくなるので,全学術分野を統合したモデルを構想しながらあるべき学術それ自体を形成するような研究も必要だ。私がこれまで書いてきたものは,法解釈論に関するものにしても,古代史に関するものにしても,植物に関するものにしても,芸術や文化に関するものにしても,そのような大枠でのモデルの中のパーツに過ぎない。しかし,これはなかなか理解されない。

「1人の学者でそんなことできるはずがない」と思われてしまうからだ。

それゆえ,実証してみせるしかない。

ところが,理解できない人々や認めたくない人々は,「要するに趣味なんじゃないか?」とケチをつけたり,「夏井は諜報機関員だからそれだけ仕事ができるのではないか?」とデマを流したりする。何とも心の貧しい人々だと思う。知的能力が高くても心の面では全くもってダメな人々というものが現実に存在する。要するに,自分の満足しか考えていないのだろう。そのような人々には利己の精神しか存在せず,利他というものが存在しないのかもしれない。

他方で,私がこれまで書いてきたものをまじめに読んでいる人は,実は大きな構想の中のパーツを順次明らかにしてきただけだということに気づいてきたようだ。それだけ,ジグソーパズルのパーツの数が増えてきたということでもある。欠けている部分がまだあっても,「もしかしたら全体像はこういうことではないか?」と推定することがどうにか可能なレベルまで,多数の論考を世に出してきた。とても時間がかかった。

さて,問題は,研究予算だ。とにかく研究予算の不足に苦しみ続けている・・・

予算がなくてもどうにかやれることを頑張って続けるしかない。

(余談2)

私の親しい知人であるT.M.氏は,「夏井=諜報機関員説」を笑い飛ばす。

なぜなら,私がこのブログで紹介している各種情報の全てが公開情報だからだ。その公開情報を素早く見つけることについては多少の自負はある。しかし,そうすることが可能なのは,1秒の無駄も惜しんで勉強し続けているからに過ぎない。要するに,私は「凡人」という自覚があるので,誰よりも多く勉強しなければならないと自覚し,そのように努力を重ねているのに過ぎない。

ちなみに,学生に対しては,「私は諜報機関員ではない。なぜなら,黒いスーツを着ていないし,黒い帽子,黒いサングラス,黒いネクタイ,黒い革靴を着用していないからだ。それを見ただけでもわかるではないか」と説明している(笑)

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2016年11月30日 (水曜日)

英国:初等・中等教育の場でのiPadの利用を制限

下記の記事が出ている。

 British Minister Says Schools Should Cut Down iPad Usage for Children
 Softpedia: November 30, 2016
 http://news.softpedia.com/news/british-minister-says-schools-should-cut-down-ipad-usage-for-children-510612.shtml

賢明な選択だと思う。

他にやるべきことはいっぱいある。

とりわけ,図書館で静かに読書することが大事だ。

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2016年11月17日 (木曜日)

MBA

下記の記事が出ている。

 日本企業で問題化する「なんちゃってMBA」-毎年5000人が誕生!そのムダと弊害
 東洋経済Online: 2016年11月16日
 http://toyokeizai.net/articles/-/144128

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2016年10月 9日 (日曜日)

プロゼミ

奉職している明治大学法学部で1~2年生配当科目である「プロゼミ」という科目を担当している。

例年,数名の受講者しかいなかった。今年は,どういうわけかかなりの数の受講者があるので,本来のゼミ(seminar)としてはちょっとやりにくいのだが,工夫しながら演習形式の授業の練習という意味での初学者教育のために頑張っている。

どこの大学においても同じではないかと想像するのだが,いろいろと事情があり,授業科目の見直しに迫られている。

この「プロゼミ」という科目についても見直しが予定されているので,来年以降,どうなっているかはわからない。

明治大学法学部の「プロゼミ」は,比較的古い科目だ。本来は,駿河台の法律専門科目の演習科目の受講希望者向けに準備段階の演習的科目として企画されたもので,主として法律科目の先生方が担当していたのだそうだ。しかし,現在では,かつてとはかなり異なった運用になってしまっている。本来あるべき「プロゼミ」として科目を担当しているのは,現時点では,私だけかもしれない。

ところで,「プロゼミ」との名称は,明らかに英語ではない。

「プロ(pro)」は,ラテン語に由来するものであろう。「プロパテント」というような場合には,「プロ」は「促進する」というような意味をもつ。しかし,「プロゼミ」の場合の「プロ」は,「~の前に」という意味で,ラテン語の「prae」と同じような意味で用いられているものと解される。

「ゼミ」が「seminar」の短縮形であることは明らかなのだが,その読みから,英語ではなく,ドイツ語の「ゼミナール」に由来するものだと考えられる。

つまり,「プロゼミ」は,ラテン語+ドイツ語の合成語的な日本語であり,英語ではない。

この名称について,英語的に「プレゼミ」とすべしとする意見がある。もし英語的な名称にするのであれば,「プレセミ」が正しいと言えるだろう。

しかし,「プレセミ」では,「空蝉(うつせみ)」のような語感から,何となく迫力がない(笑)。

また,ラテン語の「pro」がもつ多様な意味合を反映することができないという問題がある。

まあ,どうでもよいことの1つであることは間違いないので,私としては,そういうことにはあまりこだわらず,流れるままに身を任せることにしている。

そもそも大学という教育システム全体が今後どのようになるのかよくわからない状況にある。大学教育を1日たりともやってみたことのない人々や妙な評論家程度の人々や知識遊戯だけで自己満足しているような人々がもてはやされ政策決定に影響を与える時代なので,行き着くところまで行き着かないと,誰も大学という教育システムについて真剣に考えることはないということかもしれない。

私見としては,制度をいくらいじってもダメだと考えている。

必要なのは,十分な熱意と体力と知識・教養と技能をもつ教員が存在することだ。

そのような優れた教員さえいれば,現在のような大学が崩壊してしまったとしても,昔のように,キリスト教会の軒下を借りてプラトンを講じたり,仏寺の本堂を借りて論語・孟子を講じたりすることはできる。

しかし,その逆は絶対にあり得ない。

それゆえ,優れた教員がその能力を存分に発揮できるような環境を整えることこそが大事だ。

ただし,その能力は,現在普通に用いられている指標のようなもので測定できるものではないということだけは留意すべきだろう。

高等教育の分野に関する限り,現在普通に用いられている指標の類は,基本的に,まるで無意味なものばかりだと考えている。

高等教育の分野に関する限り,どの時代においても「教育する人」は成立し得るが,学問体系としての「教育学」なるものは成立の余地が全くないというのが私見だ。

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2016年9月24日 (土曜日)

米国:ジョージア州の大学で,学生が指導教授のPCをハックし自分の成績を上位に書き換えたため,逮捕されたらしい

下記の記事が出ている。

 Uni student cuffed for 'hacking professor's PC to change his grades'
 Register: 23 September, 2016
 http://www.theregister.co.uk/2016/09/23/student_arrested_hacking_to_change_grades/

 Cops: Ex-Kennesaw State student hacker changed grades and stole data
 AJC: September 20, 2016
 http://www.ajc.com/news/news/crime-law/ex-kennesaw-state-student-hacker-changed-grades-an/nsbxC/

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2016年8月13日 (土曜日)

大学における少人数クラスは正しいか?

二者択一的な見解は誤りだと考えている。

少人数でやったほうが効果的な事柄についてはそうしたほうが良いにきまっている。

しかし,そうではないものもある。

また,少人数でやれるならそうしたほうがベターなのだけれども,その科目内容について十分な内容を提供できる教授が極めて乏しいという場合には,大教室での講義形式とせざるを得ない。

誰でも教育を担当できるような科目とそうでない科目とがあるのだ。

そういうあたりをよくわかっている人は,少人数方式を全面的に肯定するといった愚を犯すことがない。

全面肯定する人の多くは,大学の科目としてあってもなくてもどちらでもよさそうな科目を担当していることが比較的多い。

能力の乏しい者が自分の就職口を少しでも増やすためにそのように主張していることもある。教員に対する賃金や報酬の支払能力を完全に無視すれば,科目数が多ければ多いだけ教育の需要が高まることは誰にでも理解できることだ。しかし,それでは大学の教育の質を大幅に低下させてしまうリスクを避けることができない。悪貨は良貨を駆逐するのだ。

そこらへんのことをきちんと見分けた上で,ものごとを判断することが大事だと思う。

米国において少人数クラスが推奨されたのは,教育効果というよりもある種の経営判断によるものなので,いずれ変化が現れるときが来ることだろう。

つまり,クラスの人数は,全ての科目にとって共通の教育効果上の本質的な問題なのではなく,あくまでも経営判断の問題だと理解していないと,あとになって泣きを見ることになる。

とってつけたような議論や意見,あるいは,単純に受け売りの見解等には感心しない。

(余談)

一般に,学位,学歴及び職歴は,当該の者の研究者としての能力及び教育者としての技能と無関係だと考えられる。有意な相関関係はない。

これまでの経験によると,知的能力との関係においては,国家公務員試験や司法試験に上位で合格している者では有意な相関関係が認められるように思う。ただし,この知的能力は,当該の者の性格や人格や思想傾向等(特に権力を求める欲望の多寡)とは一切の関係がないことに留意しなければならない。

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