2019年1月16日 (水曜日)

masculinity

下記の記事が出ている。

 Psychologists defend claim of “destructive aspects” to masculinity
 ars technica: January 16, 2019
 https://arstechnica.com/science/2019/01/psychologists-defend-linking-masculinity-to-violence-sexism-homophobia/

一般に,生物種としての本質と法的理念とはしばしば相反する。そのバランスをとる調和点は,当該時点における自然環境及び社会・政治環境によって決定される。

それは,固定的なものではない。

つまり,このようなタイプの問題は,精神医学を含む学術上の確定可能な問題ではなく,単なる偶然的な結果によって左右され続けるものに過ぎないかもしれない。

自然環境の大規模な変化は,全ての理念を吹き飛ばしてしまうことがある。理念は,天体の運行,地球の地殻変動,それらと密接な関係をもつ気象変動に勝つことなど絶対にできない。

それゆえ,学術としては,ある理念が国家的強制力をもって通用する範囲及びそのメカニズムを探究することに限定するほうが生産的である。

そのような場合に,「状況」というパラメータが非常に重要となる。

状況が変われば,全ての価値観が逆転することもあり得るし,現に,人類の歴史上,そういうことがしばしばあった。

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2019年1月13日 (日曜日)

法と情報研究会:第4回公開研究報告会

下記のとおりの内容で開催することとなった。

日時:2019年3月16日(土曜日)
時刻:9:45~17:45
場所:明治大学駿河台校舎リバティタワー6階1063教室
https://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/access.html

プログラム(敬称等略):
司会:夏井高人(午前の部),丸橋透(午後の部)
9:45       開場
10:15      開催趣旨説明(夏井高人)
10:30-11:30 研究報告1(新保史生)
        「自律型致死兵器システム(LAWS)に関するロボット法的視点からの考察(仮)」
11:30-13:00 ランチタイム
13:00-14:00 研究報告2(栁川鋭士)
        「民事訴訟手続における電子証拠とデジタル・フォレンジックの活用場面(仮)」
14:00-15:00 研究報告3(黒澤 睦)
        「ドイツ刑事手続法における情報の取扱い―捜査段階における情報の収集と蓄積を中心にして(仮)」
15:00-15:30 休憩
15:30-16:30 研究報告4(小倉秀夫)
        「裁判官によるSNSの利用と『品位を辱める行状』(仮)」
16:30-17:30 研究報告5(佐々木秀智)
        「ネットの中立性に関するアメリカの動向(仮)」
17:30      閉会挨拶(丸橋 透)
18:00      懇親会

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2019年1月11日 (金曜日)

米国:ソフトウェアの特許適格に関するUSPTOの新規則案

下記の記事が出ている。

 Software patents poised to make a comeback under new patent office rules
 ars technica: January 11, 2019
 https://arstechnica.com/tech-policy/2019/01/software-patents-poised-to-make-a-comeback-under-new-patent-office-rules/

 USPTO Releases New Guidance on Patent Subject Matter Eligibility
 Lexology: January 10, 2019
 https://www.lexology.com/library/detail.aspx?g=c6542fe0-cf4b-464e-8ca1-ab0d62da562f

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2019年1月10日 (木曜日)

訳語

かなりの苦労を重ね,多数回にわたる関係者との意見交換を踏まえつつ,EUの個人データ保護法令の参考訳の精度を高めてきた。

結果として,従来存在していた訳語(正確には,当該用語の理解)に多数の誤りがあることを自信をもって述べることができる段階に至ることができた。伝統的な「国際法」を基盤とするEU法研究は根本的に誤りであり,あくまでもEUの基本諸条約,EUの法令,構成国の国内法令及び欧州司法裁判所の判例法を基盤とする比較法研究としてのEU法研究でなければならない。

これまで重ねてきた研究成果は,紙媒体の「法と情報雑誌」のみで提供してきた。2018年12月で通巻30号となった。法と情報雑誌は,国立国会図書館に納本しているほか,残部がある限り,法と情報研究会の公開研究報告会の会場において,無償で配布している。

紙媒体の雑誌のみで配布しているのは,それに収録されている参考訳の中にまだ研究途中の中間報告的なものが含まれており,その段階でWeb公表すると,それが確定訳であるとの誤解を招き,未確定段階の状態のもののままで流通してしまう危険性があるからである。

その分野の専門研究者であれば,私の参考訳を読み,参考とした上で,自らの判断により,私の見解が誤りだと判断する部分については自己の見解に基づき適宜取捨選択した上で,更に研究を進めることができるであろう。しかし,専門研究者でない読者は,そうではないかもしれない。

しかし,法情報学を標榜する研究者として,それに適するまでに精錬度を高めたものについては,その研究成果をWeb上でも公表すべき時機が近づいてきていると判断した。

当面の予定としては,昨年採択された規則(EU) 2018/1725の参考訳を法と情報雑誌の4巻1号(通巻31号)に掲載して刊行した後,時機をみて,Web上でも公開することを考えている。

この規則(EU) 2018/1725の参考訳は,欧州委員会からの提案書と法案の翻訳及び関連するEDPSの意見書等の文書の翻訳から始め,関連するEUの多数の法令を翻訳し,関連する構成国の法令及び欧州司法裁判所の判例法も可能な限り調査し,各種資料を読んで考え,改正前の規則(EC) No 45/2001と関連する論文を書いて自分の理解を確認しながら研究を重ねてきた上での研究成果物である。

なお,紙媒体の「法と情報雑誌」は,今後も継続して刊行するが,その中からWeb公表しても良い段階まで精錬されたと判断したものについては,適宜,Web公開する方針に改めようと思う。

この段階に至るまでの間,私の研究を見守り,雑誌の印刷費を含め研究資金の確保のために御助力を賜った方々には心から御礼を申し上げる。

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2019年1月 5日 (土曜日)

EU:デジタルゲートウェイ規則(EU) 2018/1724

昨年10月に下記の規則が採択された。

 Regulation (EU) 2018/1724 of the European Parliament and of the Council of 2 October 2018
 https://eur-lex.europa.eu/eli/reg/2018/1724/oj

この規則は,EUにおける行政手続のデジタル化・オンライン化を促進するためのものであるが,個人データ保護法令との関係でも興味深い条項を多数含んでいる。

(追記)

「ゲートウェイ(gateway)」は,EUの法令において従来使用されてきた「ワンストップショップ(one-stop shop)」とほぼ同じ概念であると考えられる。意味的には,ある1か所で行われた行為が関連する全ての部署等と自動的に連携して処理されることを示す。より抽象的には,ある1つの装置またはシステムによって,必要な処理の全てを完了できることを意味する。

ゲートウェイが鉄道である場合,そのゲートウェイから日本中のどこの路線へも始発で乗車できることが必須の要件となるであろう。もしそのような機能をもたないのに名前だけ「ゲートウェイ」とした場合,景品表示法を含め,消費者保護法上の深刻な問題が発生することを避けることができない。賢明な経営者は,そのような事態の発生を未然に防ぐことのできる判断を採用すべきだろう。

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2018年12月24日 (月曜日)

布都主神

「布都」は,「ふつ」と読ませる。

豊城入彦命」の「豊」は,「とよ」と読ませるが,「ふ」と読み得る。そして,「城入」または「城」とは「都」のことであるので,「豊城入」または「豊城」=「豊都」であり得る。つまり,「豊城入」は「ふつ」であり得る。「入」を「ぬ」または「の」と読むことが可能であるとすれば,「豊城入」は,そのままで「布都主」とほぼ同じ音(読み)となる。

音読みとするか訓読み(または,非常に特殊な読み下し)とするかによる相違はあるが,『古事記』や『日本書紀』の編者は,ある程度までわかっていて意図的にそのような作為を加え,それによって,非常に古い時代のこととして重複して記載した人物があたかも別人であるかのように見せかけた可能性が高い。しかし,「淡海三船」とされる人物は,それらのことを知っていて,巧妙な仕掛けを細工しておいたのだろうと考えられる。唐に敗れた後の倭国における特殊な政治状況がそのようなことを必要としたのに違いない。

いずれにしても,このように考えてみると,鹿島神宮の神とは,まさに「豊城入彦命」のことであると推定することが可能となる。

鹿島神宮周辺の古代の地形から推定すると,その周辺は,かなり大きな水軍の本拠地であったと推定される。神宮の近くには大型の古墳群も存在する。現地を訪問してみて回ったことがあるが,当時,相当に優勢な勢力が存在していたことは,疑いようがない。

この地を本拠地として,現在の茨城県内各地の軍事的な平定(武による統治)が進められ,更に,北関東一帯の平定が進められたものであろう。

「ヤマトタケル」の神話に関しては,多数の異なる伝承を1人の人物に仮託して構成されたものだとの説が有力だが,たぶん,そのとおりなのではないかと思う。同じようなストーリーの話が別の人物の話として登場することがしばしばあり,長い年月の間にもともとの伝承の変形や派生のようなものが多数成立していたのだろう。

このような武力による倭国全体の平定が進行した時代は,魏・晋の時代~南北朝の頃ではないかと思われる。

その平定は,丹波のあたりから始まり,拠点を次第に移動させ,更に同心円状に倭国全体に及んだと考えるのが妥当である。伊勢神宮の場所的移動は,それに伴うものと考えることもできる。

これまでいろいろと考えてきたのだが,最近では,邪馬台国の「卑弥呼」は「狭穂姫命」の頃時代の人物,「臺與」は,「日葉酢媛命」の時代の人物ではないかと考えるようになってきた。なお,「狭穂姫」に関しては,「木花之佐久夜毘売」の伝承との類似性もあると考えられる。

『魏書』によれば,そのころの時代の倭国では何度も戦乱があったようなのだが,それは,魏・晋との関係強化(特に,当時における最先端の武器や文化の導入)によって勢力を拡大させた人々が倭国全体に支配を拡大させようとした結果生じたことではないかと想像される。

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2018年12月22日 (土曜日)

豊城入彦命

北関東にはゆかりの地が何か所かある。

かつては,総社二子山古墳(群馬県前橋市総社町植野)がその墓所とされていた。

現在では,前二子古墳(群馬県前橋市西大室町)をその墓所と考える見解が多い。

しかし,丸山古墳(茨城県石岡市柿岡)にもその墓所であるとの伝承が残されている。

そして,茨城県笠間市にある笠間城址の佐志能神社は,「豊城入彦命四世孫大荒田別命之後」とされる「佐自怒公」と関連のある神社とされている(現時点の私見としては,「佐自怒公」を「曹子之公と理解したい。「大荒」は,「太荒」すなわち「二荒」が転化したものと考える余地がある。「二子」もそのままで「ふたり」または「ふたら」と読み得る)。

中世に笠間を治めた笠間氏は,宇都宮成綱の子である塩谷朝業の子(後に宇都宮頼綱の養子)である笠間時朝を祖とするとされているので,宇都宮氏の子孫であることになる。

「宇都宮」は,「二荒山」の別称と考えられている(ただし,「二荒」が「宇太」から転じたものと解する余地はある。「宇」は「兎」または「禹」を指すものであるかもしれない。「宇陀」,「宇田」,「宇賀」等も同じである)。

そのような一般的な見解を一応離れ,「二荒」を梵語と仮定して考えてみた。

近似する語として「पुत्र(putrá‎)」があり,これは,「息子」を意味する。すなわち,「豊城入彦命」を指すものと解することが可能である。

実際の地理関係等から考えてみても,「上毛」及び「下毛」の関係から考えてみても,上記の各古墳は何らかの意味での血族関係で結ばれた人々の墓所である可能性はあり得るのではないかと思う。

そして,二荒山は,山岳信仰や日光東照宮だけで理解されるべきものではなく,宇都宮市周辺の多数の古墳と共に,ヤマトタケルの東国征伐の神話に象徴されるような歴史上の出来事と深い関連性があると仮定してものごとを考えてみるだけの価値があるのではないかと思う。

那須國造碑で有名な栃木県那須郡那珂川町にある数々の古墳も全く無関係のものではあるまい。

これらの古墳の被葬者について,現行の高校の社会科教科書レベルでは,地元にもともと存在していた地方豪族のようなものだけが想定されているが,誤りであると考える。

***

梵語由来を仮定しない場合,「二荒」または「太荒」は,帯方郡の「帯」との関係を考察することも可能である。

そもそも「帯方郡」の字義について,確定した見解はない。これまたそもそも梵語または契丹ないしスキタイ系の語源を想定すべき余地がある。

同様に,「多利思北孤」の意味についても再考の余地が十分にあると考えてきた。

しかし,まだ結論は出ていない。

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2018年12月18日 (火曜日)

やまとはくにのまほろば

『古事記』には「夜麻登波 久爾能麻本呂婆」とあり、『日本書紀』には「夜麻苔波 區珥能摩倍邏摩」とあり、異なる表現をもちいている。当時、日本国で用いられていた語は、多種多様であった(=統一国語がない状態)と推定され、読みの「音」も統一されていなかったと考えられるだけではなく、それを漢文表記する際の音もいわゆる漢音と呉音に加え古音や方言のようなものも混在している状態で、全く統一されていなかったため、このような結果が生じたと推定するのが妥当だ。現代の中国においても、地方における言語の差異が著しく、「標準中国語を知っているだけで大丈夫」と考えるのは相当に無知な者であると言える。

「夜麻苔」は、「やまつ」または「やまたい」とも読み得る。

「麻本呂婆」及び「摩倍邏摩」の最初の文字は、「真の」という意味を強調するための接頭音のようなものと考えられる。

さて、「本呂婆」と「倍邏摩」の意義が問題となる。

「原(はら、ばる)」は、国(國)を意味する。また、大陸の遊牧民族は、現代では「ゲル」と呼ばれるような移動可能な住居をもち、その頭領は天幕(幕)で装飾したゲルの中に住み、そこで施政する。それゆえ、「ほろ(幌など)」もまた国(幕府)を意味し得る。ゲルは、「パオ(包)」とも呼ばれる。

それゆえ、「まほろば」は、「最高権力の所在地」という意味をもつと考えることが可能である。

他方、「まはらま」または「まあらま」は、謎であるが、外来語であるかもしれない。例えば、トルコ語ではスカーフのような布のことを指す語として「mahrama」があるから、やはり、それにたとえて(権力の所在地を意味する)天幕のようなものを指すと解することは不可能ではない。当時、仏教を通じて中央アジアやインドの語彙が大量に入ってきていたと考えるのが妥当で、むしろ、純粋な「やまとことば」しか存在していなかったというような具合に考えることには疑問符をつけるほうが妥当である。

「まはらま」または「まあらま」が梵語であると仮定した場合、「Mahārāmā」または「Mahārāja」を想定することは可能である。いずれも「偉大なる王」を意味する。

一般に、(特に「枕詞」として使用される場合)「やまとことば」の中には梵語由来と推定されるものがかなり多数ある。

なお、「麻呂」は、「麻本呂」の省略形であり、ほぼ同義のものであると考える余地はある。「ほ」または「お」の音は、しばしば省略されてしまうことがある。「麻呂」は「王」を意味し得る。

そのように考えると、この歌は、誰か士官が戦闘を終えてもすぐに次の命令が下って各地の国々を滅ぼし、平服させる戦闘が続くことをぼやいてつくったもので、本音としては、「そりゃ~~大和は最高権力者だよ。砦をいっぱいつくって戦を重ねてきたけれども、(また命令が下ったので)山々を越え、草木を分けて戦闘を続けなければならない。あ~~ァ、大和様はご立派なことだよ(大和の頭領は偉いね~~)」というな、かなりネガティブな(怨嗟的な)恨み節のようなものであったかもしれない。

あるいは、「まはらま」を梵語として理解する場合、「大和は偉大なる王(釈尊)だよ。しかし、砦をいっぱいつくって戦争を重ね、山々を越え、草木を分けて殺生を続けなければならない。あ~~ァ、偉大なる王(釈尊)様はご立派なことだよ」という痛烈な批判となっているものかもしれない。

一般に、皮肉というものは、外見的には皮肉に見えるものではなく、発音の抑揚のみによって識別されるものであるので、文字化(符号化)したとたんに、それが皮肉であるのか字義どおりのものであるのかが判別できなくなるという特性をもつことがある。

当時の戦闘は、白兵戦が基本なので消耗するのが当然なのだが、軍隊が単に長距離を行軍するだけでも大変なことで、兵糧を現地調達するため、古くから住む人々を支配下において調達を実行するための様々な面倒なことも伴ったと考えられる。軍隊が通り過ぎる間は服従したふりをしていれば良いと判断した当地の国主らは、武力をもたない農民であるかのようなフリをし、平身低頭し、食糧と寝る場所(または一時的な駐屯場所)を提供し、将官に対しては美女も提供したのであろう。抵抗する者は「熊襲」や「土蜘蛛」として物理的に制圧され、歴史から消え去った。ヤマトタケルと関連する記録は、そのことを暗に示すものと理解するのが合理的である。

この歌には「望郷の歌である」との趣旨の注記が付されている。字義または文意として(当時において)全く紛れのないものであったとすれば、わざわざ注記を付していることに大いに疑問を感ずる。多義的であるからこそ、あるいは、ある種の政治的な意味合をもって、意図的に注記していると考えるのが妥当である。

いずれにしても、景行天皇(大帶日子淤斯呂和氣天皇)の頃に、強力な武力を行使した制圧により、日本国の統一が完成したと考えるのが妥当である。現在まで残る大型古墳の多くは、その際の戦功により郡司または国司等に任ぜられた武将及びその子孫の墓と考えるのが妥当である。

『日本書紀』にある「烏波利珥 多陀珥霧伽幣流 比苔菟麻菟阿波例 比等菟麻菟 比苔珥阿利勢麼 岐農岐勢摩之塢 多知波開摩之塢」は意味のある文であると考える。

この歌にあるのは単なる樹木のことではなく、秦氏系(菟)の民衆(農民)のことを指すのであろう。ただし、この歌は、何らかの政治的な理由により、景行天皇及びヤマトタケルの時代のものとして挿入されたものである可能性はある。また、「ウガヤフキアエズ」の「ウ」は、「兎」及び「禹」を意味するものであり、そのシンボルは「桃」である。「桃」を更に象徴化すると「宝珠」となる。

景行天皇にもゆかりがあると考えられる茨城県稲敷市阿波にある大杉神社を参拝しながら、このようなことを考えた。

***

「帶」は、曹操及び司馬懿の時代の帯方郡と関連する名称(尊称)ではないかとも考えられる。

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2018年12月10日 (月曜日)

大学入試における男女差別問題

いろいろと報道されている。

いろんな意見がある。

しかし,「**女子医大」等の名称が名称それ自体として「差別的だ」という意見はないし,女性だけの学校等を「差別的だ」という意見を耳にする機会は滅多にない。

また,レストランには女性専用メニューがかなり多数存在するが,「差別的だ」という意見を耳にしたことがない。

非常に興味深い現象だと思っている。

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2018年11月30日 (金曜日)

我妻民法は,意思主義をベースとしているか?

司法試験受験生のときからずっと疑問に思ってきた。

無論,明治時代以来の先学の著作に多分に依拠していることもあって,表面的にはオーソドックスな民法学通説に従っているように見える部分が圧倒的に多い。

しかし,我妻民法オリジナルの部分として識別可能な部分だけ分離して考察してみると,実はそうではないのではないかと考えた。

そう考えてはいたが,現実問題として,そのように露骨に書くと司法試験に合格することなどあり得ないことなので,試験対策は試験対策として完全に割り切ることとし,そのようにして乗り切った。裁判官当時においても同じだった。

現在は,裁判官ではない。学問の自由の下において,自由に考え,自由に述べることができる。

我妻栄氏が優れているのは,意思主義の次の時代のことを既に想定し,将来の若い世代の研究者のための種を密かに『民法講義』の中に残してくれたことではないかと思う。そのことには,心から尊敬の念を抱く。

私の『ネットワーク社会の文化の法』の中で示した「処理主義」の考え方は,そのような小さな種を発見し,発芽させ,成長させてきた産物だ。

現在,完全に帰納法的な研究手法に移行した結果として,ますますもってそのことを論証可能であるとの確信を強めている。

「処理主義」と関連する事柄は,丸暗記方式で民法学通説を覚えているだけのようなタイプの人々には絶対に理解できない。理解できる人々にだけ理解されれば良いし,もし受講学生の中で理解可能な能力をもつ者がいれば,その意味を教えようと考え,この本を書いた。

約20年間にわたる学者人生の中で,「よく理解してくれた」と認めることのできる学生の総数は,そんなに多いとは言えないが,無論,ゼロではなかった。そのような人生であったことに感謝したい。

一般に,人間社会の中において,完全に対等な関係の下で,完全な自由意思により,合理的に交渉が行われ,その意思決定を基礎として法的責任が生ずるような場面は,実際には滅多になく,大半の場合においては,スイッチのオンまたはオフのような簡単な出来事をシンボルとして,ほぼ自動的に処理されているのに過ぎない。

その根拠は何であるかというと,「そのような法制度になっている」ということに尽きる。特に完全な無過失責任または結果責任の場合,意思理論が出る幕はない。

そして,あくまでも机上の理論としては,そのようなほぼ自動的に現実に処理され続けている部分に関しては,AIによる自動処理が可能である。そのような自動処理には,裁判と均等な処理及び執行と均等な処理も含まれる。

このような問題について,法哲学的な満足感を得たいのであれば,ローマ法やシュメール法に遡った綿密な法源研究を継続する以外に適切な手段はなさそうに思える。そして,そのような手段によりたどりつくのは,常に,「格言」のようなものが社会的に強制されるという事実のみである。換言すると,「そのような制度になっている」という以外の説明をつけることができない。ヘロドトスは,そのことを非常によく理解していた。だからこそ,優れた著作を後世に残すことができた。

今後の法律家は,「本当はそのようなものである」ということを明確に認識・自覚した上で,存在するシステムを自由自在に使いこなせるような能力を十分にもたなければならない。それは非常に困難なことではあるが,努力によってその困難を乗り越えるのでなければ,世間から尊敬される存在となることなどできない。

ただし,不合理な制度を全て是認すべきであるということを主張しているのではない。

制度は人工的な構築物の一種であるので,常に何らかの欠陥を含んでいる。その欠陥は,克服されなければならない。

その場合の判断基準または行動基準の一種として,(少なくとも,民主主義を標榜する国家においては)利益衡量が用いられることがある。この利益衡量は,権力関係または利害関係の変化に伴う事後的な調整機能の発動として理解することが可能である。

そのような克服のための苦闘は,人類が滅びる日まで続く。

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