世間には,「文系だから・・・」または「理系だから・・・」ということにこだわり過ぎる人がまだ存在するようだ。
かつて,血液型性格診断なる荒唐無稽な屁理屈が流行ったころに「A型人間だから」または「B型人間だから・・・」等とこだわった人たちとあまり変わらない。ABO式による血液型の区分は無数にある識別基準または指標の一つに過ぎない。ABO式の区分だけで全てが決定されるということが科学的に証明されたことはこれまで一度もない。
さて,文系と理系の区分は,本来的に無意味なものだ。
古い時代においては,文系と理系の区分など存在せず,全ての学問分野が「哲学」または「神学」の中に包摂されていた。
日本国の幕末における蘭学者の中にはそのような包括的な知性をもつ天才または天才に近い人材が多数認められる。
日本国においては,文系と理系の区分は,明治維新当時における富国強兵という目的を実現するために採用された手段的な概念であり,包括的な知性をもつ人材ではなく,部分的な知識を習得するだけで当該分野においては専門家として扱われ得る人材を速成栽培するために用いられた一時的な緊急対応策の一部だったと考えられる。
産業革命以降における大規模工場の工程を細分化し,細分化された工程を習得した人材を有能な人材として扱う産業上の社会構造がそのような国家レベルにおける教育姿勢または教育目標を支え続けたとも言える。
そして,現在でもなお,世界の産業構造はそのようなものなのかもしれないし,(受験予備校的な)内容空疎な丸暗記型思考しかできない人にとっては,理系と文系の区分が「真理」の一部であると信じられているかもしれない。
しかし,時代は変わった。大量生産方式を基礎とするようなタイプの資本主義は(建前上の国家体制が社会主義または共産主義の国家における実質的な意味での資本主義を含め)終焉の時を迎えつつある。
AIという文脈で現在の世界を見渡してみると,(日本国という極東の小国の文部科学省が採用している「理系と文系」という区分など完全に無視して)米国や中国の巨大なAIシステムは,全ての種類のデータを網羅的にどんどん呑み込み続けている。
そのようにして収集されたデータは,理系や文系という区分とは完全に無関係に,当該システムの設計者が想定した知識構造の仮説に基づいて処理され,有用性が確認されれば,その仮説は,その仮説を実証する統合されたデータ群であるモデルという表現形式により使用されることになる。
しかし,一般に,根本的に誤った仮説に基づいてデータが収集されるような場合においては,そのようにして収集されたデータを基礎として統計上または確率論上の何らかの有意な関係が証明されたとしても,土台となっている世界観(仮説)それ自体が最初から荒唐無稽であるので,また,誤った仮説に従って事前にフィルタされたデータのみを基礎として確率論の計算等が実行されるので,それらの証明それ自体が全く何の意味ももたないものであることが明らかだ。
統計学が常に正しいとすれば,ガリレオが生きた時代において,バチカンが絶対的に正しく,ガリレオは狂人または悪魔であったことになる。
しかし,本当はそうではないということは,(確率論によってではなく)長い時間の経過によって人々が普通の知識にアクセスできるようになったことによって常識のものとなった。
もっとも,ダーウィンのいうような意味での適者生存論または自然淘汰説に関しては,聖書の教えに反するとして禁止されている地域が現在でも多数存在している。
現在のアメリカ合衆国で起きている科学技術上及び政治上の出来事をできるだけ多角的に理解しようとするときは,そのような包括的な観点からの考察も必要だと考える。
***
『モナリザ』の作者として有名ではあるけれども諸学とその実践に通じていた天才の一員であるレオナルドダビンチは,理解でも文系でもなく古典的な意味での総合学としての哲学の人だったと言える。
意味なく理系と文系とを区別したがる人は,このことをどのように考えるのだろうか?
最近のコメント