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2023年12月10日 (日曜日)

情報ネットワーク法学会第23回研究大会の講演を終えて

昨日の講演を無事に終えることができた。

とても大勢の方が来場しており,びっくりした。

来場者の中には若い方もたくさん含まれていた。丁寧にメモをとったり,考えたりしている方が多かった。勉強熱心なのだと思う。
私の講演内容は,既に過去の人間となってしまっている老人の回顧または戯言のようなものに過ぎないものではあるが,そのような若い方が,私の過去の思索の残骸の中から何らかのヒントを得て,そこから,今後の新たな学術を生長させることに寄与できたとすれば,少しは世間のために役立ったのではないかと思う。

講演会場では,これまでの研究生活の中で深く関わりのあった方々とも本当に久しぶりにお会いできた。よかった。

講演の最中は,PPTの画面切替等について,予定外で某先生に操作のお願いをすることができ,そのおかげでスムーズに講演を進めることができた。心から感謝する。

そして,会場の設営や運営その他の仕事を担当していた方々からとても親切にしていただいた。心から御礼を述べる。

講演を終えた後,諸般の事情のため,JRの電車で帰宅した。かなり疲れていたらしく,帰路の電車の中では到着駅のすぐ手前の駅になるまで熟睡してしまった。あやうく乗り過ごすところ・・・

悲しいことではあるが,老化による劣化には勝てない。

***

講演終了直後,結構多くの方から挨拶を受け,また,直接に質問等も受けた。

その中には法解釈学の専門家ではない方もあり,論文を書いても法学者になかなか読んでもらえないとのことだった。

その場で回答できることとそうでないこととがあるので,必要に応じて自分なりに最善と思われる対応をした。

ここで,あくまでも一般論として,このことについてちょっと付言しておきたいと思う。

例えば,工学系の研究者等の書いた論文が法解釈学を専門とする法学者になかなか読んでもらえないことがあるというのは事実だと思う。

それは,実に様々な原因による。その全てのパターンを解説することは無理なことなので,代表的と思われる2つのパターンについてだけ述べることにする。

ここでは,仮にその工学系の専門家の論文のテーマが具体的な事象Aであり,依拠する自然科学上の理論がXだと仮定する。

(パターン1)

一般的な法学者は,事象Aを含む種々雑多な要素事実集合を前提として法学理論を調査,研究,構築するのであり,特定の限定的な現象に過ぎない事象Aだけを対象として適用可能な法令を研究する法学者は,基本的に存在しない。

例えば,ある種類に属する工作機械の仕様や性能と関係する行政規制に関する法令が存在する場合,そのような工作機械全部を含む特定のグループの工作機械に関する規制法令に関する法学研究は存在し得るが,たぶん稀であり,普通は,種々雑多な工作機械全部を想定した行政規制一般について「法規範」(=当為≠存在)の調査研究をするのが法解釈の主流である。ここでは,個々具体的な工作機械の特性やその特性を基礎付けている物理法則や工業上の技術仕様等は全て捨象される。「どうあるべきか」という当為が問題なのであり,当該個別具体的な工作機械がどうして動作するのかという工学的側面は法解釈学上の調査研究の対象とはならない。

だから,一般的な法解釈論を前提とする限り,当該工学系の専門家の書いた論文を引用する必然性と遭遇することがない。特に,特定の法学理論を公理として,演繹法により応用理論を展開するだけのタイプの法学者では,ほぼ100%の確率でそうなる。

同じ理由により,事象Aに触れる必要のない研究テーマで法学論文を書こうとする法学研究者は,事象Aと関連する先行研究を調査・検討する必要がなく,当該先行研究が根拠とする理論Xについて考察する必要もないので,特に意図的に無視しているのではなくても,当該工学系の研究者の専門家の論文に触れる必要性がない。

このことは逆から考えてみても同じであり,例えば,極めて特殊な特定の種類の工作機械の振動特性というような事象を研究テーマとし,精密な測定を基礎とする実験結果を論証のための根拠とし,その論証が成立するための論証として工学上の極めて特殊な理論に依拠して研究論文を作成しようとする場合,民法の意思表示の到達と関連する極めて特殊な法学専門論文を参照する必要性は全くないし,引用すべきでもない。

このことは,当該工学系の専門論文の対象が専門的なものであれば専門的なものであるほど発生し得ることである。

では,そのようなタイプの工学系の専門論文が法学者にとって全く無用のものであるかと言えば,それは場合によるとしか言いようがない。

例外的に,当該の法学研究者が演繹法ではなく帰納法を重視し,時間がかかっても網羅的に関連論文を全て読み理解しようとするタイプの研究者である場合には,少しでも何らかの関係があると推測できれば,ここで述べているような意味での工学系の特殊分野の専門論文であっても読むし,それを理解するためにその分野の基礎を独学により大急ぎで完全にマスターするだろう。そのようなタイプの法学研究者の場合,工学系の専門論文であっても法学論文の中で参照・引用されることはあり得ると考えられる。
ただし,現実にそのようなことが発生する確率は,極めて小さい。それだけの極めて高度な能力をもった法学研究者は,かなり稀にしか存在しない。私は,明治大学の講義の中で,穂積陳重と牧野栄一の代表的な著作には一応目を通し,自分なりに考えてみるように指示しているのだが,例年,その指示どおりに大学図書館に通い,熱心に精読する学生は1~2名程度となっている。

他方において,当該分野について正確なところはよくわからないけれども,先見性のある優れた論文であるかどうかを見分ける能力をもつ極めて優れた人々は,どの分野にも存在する。
もし(偶然であっても)そのような人の目にとまり,高評価を得ることができれば,何らかの幸運が拓ける可能性はあるのではないかと思う。
ただし,どんなに有能な人でも万能者ではないし,誰に対しても親切に扱うべき義務を負っているわけではないし,自由に使える時間が限られているので,著書や論文を献本しても,何らかの見返りや幸運があると期待してはならない。

一般に,人生は,実力だけで勝ち取ることが難しい。コネや金(賄賂)だけでうまくいくとも限らない。努力の積み重ねが必ず報われるという保証はない。

天(運)が助けてくれるのでなければどうにもならないことが実際には非常に多い。

しかし,努力の蓄積がなく,実力が醸成されていない者に対しては,誰も尊敬の気持ちをもつことはなく,最悪の場合でも利用価値のある人物だと評価されることはない。

(地球上で1000年に1人のレベルの天才でもない限り)とにかく地道な努力を継続し,基礎教養を可能な限り豊富に蓄積して自分自身のための肥料とし,真の実力を高めることは,人生にとって必須の要件であり,これなしには始まらない。

(剽窃や強奪や侵略のような場合を除き)「無」から「有」を生み出すような便利な方法は存在しない。

過去に存在した便利な方法や手段は既に剽窃・模倣し尽くされ,受験予備校等で徹底的に暗記させられるものなので,簡単に言えば完全に陳腐化しており,それを身につけたからといって特に優位にたてる手段となるわけではない。
一般に,既に誰でも知っていることは,相対的優位または差別化のための手段とはならない。

以上のこと全てを踏まえた上で,まともな社会であり,かつ,まともな人間である限り,努力を積み重ね,自分なりに学術と真摯に向き合い続け,そして,天恵が与えられるのであれば,新たな人生が拓けることもある。

なお,以上の事柄に関しては以前も書いたことがあるのだが,全然読まれていないし,理解されてもいないようなので,あえて書くことにした。

(パターン2)

学術研究の中には,当該研究領域の特定の事象に関して直接に研究する場合と,当該研究領域の過去の研究史を研究する場合とがあり,後者は,歴史学の一種に属する。

例えば,法学の分野においては,具体的な法令の法解釈を直接の研究対象としている法解釈学に従事する法学研究者が大部分を占めている。
これに対し,基本的に歴史学そのものであるか,または,法学上のカテゴリとして歴史学を構成要素とするものとして分類可能な領域の研究を見渡してみると,過去の法学研究史(法学理論史)や法思想史または法哲学の分野がそれに該当し得るが,この分野に属する専門研究者は極めて少ない。
そもそもポストがほとんどない。

ところで,「プライバシー」や「個人データ」のような特殊な法概念に関して研究する法学研究者は,それ自体としては,それほど少ないわけではなく,憲法学や行政法学を専門とする研究者であれば,それらの学問領域を成立させている基礎的な構成要素の一部として,これらの法概念について研究をし,それぞれ自分なりの理解を得る。

ただし,そのようにして基礎的な研究を尽くした者であっても,その分野の辞書をつくろうとする語学研究者ではない。それゆえ,理論としての骨格と理論史上の流れを知り,理解し,現時点における法解釈学上の影響を考察できるレベルに達することができればそれで足り,そのような点に関する自分の検討過程等をあえて論文にして公表することがかなり少ない。
無論,「プライバシー」や「個人データ」をテーマとする極めて優れた研究書が(内外で)既に多数公刊されており,最上級審レベルのものに限定したとしても関連する判例法が数えきれないほど多数存在する。それらの先行研究や判例法の判決理由と重複する内容のものを論文として公表しても,学術上の価値はほとんどない。

そして,本来の研究テーマの基礎となる必須の事柄であっても,本来の研究テーマそのものではない事項の調査研究にあまりこだわり続けると,本来の研究テーマと直接向き合うことがいつまでたってもできなくなってしまうという(研究者にとっての)極めて深刻な問題が生ずる。
このこともまた,過去の研究史のような歴史学に属する調査レポートや小論文のようなものが実際にはあまり存在しないことの原因の1つとなっている。しかし,公表されているものが皆無または乏しいということは,かなり多くの人々がそのような分野に属する事象について研究していないということを全く意味しない。

ところで,法解釈学と歴史学の領域に含まれる法学関連の研究との明確な区別やそれぞれの分野の法学研究者の基本的な研究姿勢・研究手法を知らない理系の研究者が,(圧倒的多数の法解釈学ではなく)歴史学の領域に含まれる法学関連のテーマについて極めて綿密な調査結果を論文にまとめて公表したとしても,(パターンAの場合と同様)当該歴史学の領域に含まれるようなタイプの論文が参照・引用され得るような必然性や必要性を生じさせないこととなる。

既に研究し尽くしているけれども自分自身の直接の研究テーマではない法学研究者にとっては,それが既知の事柄しか書いていない論文であるとすれば,「だからどうなのだ」と呟いて終わりということになる。

更に付言すると,時間をかけて研究している間に,過去のある時点で特定の見解を示していた研究者が自らの研究成果に顧みて別の見解をとるという方向で変遷していることが多々あるし,そもそも「個人データ」にしても「プライバシー」にしても,それ自体としては単なる符号列に過ぎず,意味内容を全く伴わず,それぞれの特定の時点においてそれらの語が指し示している現実の事象と,当該の語を使用する者の脳内の経年的に蓄積されたバイアスによって恣意的に利用される用法との相互作用としてそれらの語の「使用」という社会現象が発生しているだけなので,長年の調査を終えて研究成果をまとめるとう段になると,そもそも対象それ自体がすっかり変化してしまっており,ただ,自分だけがそれに気づいていないというようなことが発生し得ることには十分に留意すべきだと思う。

物理学の基本理論とは若干異なるかもしれないが,観察者と被観察対象は,双方とも変化し続けているので,本当は固定的に理論化することそれ自体が不能事に属する。

そして,過去2000年以上の人類史の中で,歴史書として残されてきた偉大な古典は,それなりの普遍的価値や歴史的価値を含むがゆえにそうなっていること,また,極めて稀な天才でなければそのような業績を残すことがそもそも難しいのだということを知るという意味での謙虚さを維持することも大事なことだろうと思う。

(考えられる解決策)

情報ネットワーク法学会は,デジタル化された社会そしてネットワーク化された社会において生ずる様々な事象の中で,法的検討課題としてとらえることのできる事象に関し,法学の研究者であるか否かを問わず,専門分野の別を問わず,特に学際的な研究を実施しようとする研究者である限り,そのための適切な場を提供することを目的として存在している。

法学の専門家であれ,そうではない分野に生きる人々であれ,どのような立場の人々から提出されるものであっても,ある具体的なテーマの研究の今後の進展に寄与する可能性のある要素を大量に含む研究業績であれば歓迎されることになるだろう。

好意的な評価を受けるためには,そのような意味でのTPOをわきまわることが肝要であり,そのようなTPOをわきまえてタイミングよく提出された研究業績であれば,優れた研究論文として歓迎されることになるだろうと思う。

情報ネットワーク法学会に所属して大きな研究成果をあげてきた著名な研究者各位は,そのようにして,非常にシビアな学術の世界を生き続け,綿密な調査検討を踏まえたタイムリーな著作を公表することによって,人々の尊敬を得てきたのだろうと思う。

無論,尊敬を得たとしても大きな収入に結びつくわけではないし,権力や社会的地位を得るわけでもないし,法学研究者として生きるためのシビアさが解消されるわけでもない。

しかし,要するに,その研究分野が好きなので,いつまでも好きなことをやり続けることができていることの幸運を天や神仏や(無神論者の場合には)幸運に感謝しつつ,更に研究し続け,その調査研究結果がまとまれば論文として体裁を整えた上で公表するということを続けているということなのだろうと思う。

それゆえ,自分なりによく考えた上で,可能な限り多くの人々の実際の研究テーマと関係しそうな表題及び内容の論文として仕立てることのできる適切な文書作成の技法を習得できれば,上記のようなタイプの悩める工学系の専門分野の研究者が容易に導入可能な解決策を自ら見出すことができるだろうと考える。
どの学術領域においても,その領域に適した表現手法や書式のようなものが必ず存在する。

そして,当該専門領域を主たる活動分野としていない人々にとっては,当該分野で使用される特殊な語彙や約束事を知ることが困難なことが多いので,せっかく書いた論文が「判読」または「読解」の段階における障壁によって読まれないということは,しばしばある。それゆえ,学際的な分野における専門論文では,関係するどの分野に属する読者であっても比較的容易に意味内容を獲得できるようにするための工夫と努力を重ねる必要性がある。
「これくらいわかるだろう」は,必ずしも間違っているわけではないのだけれども,そのような姿勢で書かれた論文を好んで読む読者がどれだけいるかはよくわからない。

なお,誤解のないように付言しておくと,私は,当該研究成果が唯我独尊のものであっても構わないと思っている。
それは,(例えば,テロ行為の扇動のような)あからさまに社会秩序に反することを内容とするものではない限り,まさに学問の自由・表現の自由の一部であり得る。
しかし,唯我独尊タイプの研究成果の場合,その研究成果を支持する者が誰も出てこないことはむしろ当たり前のことなので,人々から賛同を得ることや,まして,賞賛を得ることは最初から完全に諦め,逆に,無視されて当然,批判には耐えなければならないということを100%覚悟した上で,自分の研究成果を公表すべきだろうと思う。
もしそのようにして孤立し,無視され続けても嘆いてはならない。唯我独尊で生きるといことは,そのような人生を引き受け得るということをも意味している。

 

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