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2023年12月 3日 (日曜日)

Chris Reed

かつて,だいぶ遠い昔のことになるが,裁判官(東京地裁判事)を依願退官して明治大学法学部の教授に転職し,法情報学に関して世界最高の学術を成立させるべく努力を開始したとたんにあちこちから非常に苦労の多い仕事が舞い込んだ。

凡人である私にとっては,嬉しいけれどもありがた迷惑だった。リクエストそれ自体が処理可能な範囲内だったので,より面倒くさかった。私の能力の及ばないことであれば,「無理です」と言って断っていたことだろう。

かくして,平均睡眠時間3~4時間という生活スタイルを20年近くにわたって続けることになった。自分でもよく死ななかったものだと思う。正確には,ちょっとでも余裕があれば,5分でも10分でも仮眠をとった。それは,目下注目すべきリドリー・スコット監督の映画が公開されているナポレオン1世的な生活スタイルと似た生活スタイルだったのだろうと思う。

ナポレオン1世が仮眠をとった場所は馬車の中だったと思われる。私の場合は,通勤のために乗車するJRの列車の座席だった。

さすがのナポレオン1世も老化による劣化に耐えることはできなかったと思われる。セルゲイ・ボンダルチュク監督の凄まじい映画『ワーテルロー』は,そのことを表現し尽くしている。この私も同様に老化により劣化してしまっており,最近は,午後の時間の大部分を仮眠のために割当てている。かつての自分のことを思い出すと,情けないとしか言いようがない・・・

さて,そのようにして舞い込んできた想定外の仕事の中には,サイバー法と関連するものが多かった。

サイバー法とは言っても,実定法の法解釈論の範囲内にあることであれば,そんなに難しいものではない。
ただし,少なくとも5か国語以上の言語を駆使して比較法的な検討を実施した上で,さりげなく日本国法及び関連外国法の法解釈を提供しているかのような細工が必要で,その分だけ普通の日本国法の法解釈よりずっと多くの神経を使う仕事の連続だった。もともと外国語が得意というわけでもなかったので,さんざん苦労しながら可能な限りの努力を尽した。

法理論に関しては,何らかのモデルが必要だった。

そのモデルは,いずれ私自身によって乗り越えられるべきものかもしれないが,しかし,具体的な目標が存在し,それを検討し,もし間違っていると判断したのであれば全否定して乗り越えるような学術研究をするのでなければ全く意味がない。

私が選んだのは,当時大流行のローレンス・レッシッグ(Lawrence Lessig)ではなく,英国のクリス・リード(Chris Reed)だった。実に素晴らしい。現在でも尊敬している。

誤解がないように付言しておくと,レッシグは,本当に人間味あふれる優れた人物であり,私の個性と親和性のある部分が多く,多数回にわたり直接に意見交換したことがある。嫌いな法学者ではないし,現代の知的財産権の分野では(理論と実務を結合することに成功している)極めて立派な業績を残した法学者だと思っている。

しかし,私が注目したいのは,法理論としての包摂の範囲の大きさだ。クリス・リードが述べていることは,ごく当たり前のことであるがゆえに,最も包摂性が高い。換言すると,最も優れた理論を提供していると言える。

私は,そこから出発したのだが,そのようにして研究している間に,そもそも「サイバーとは何か?」に興味をもち,相当長期間にわたって研究し続けてきた。

一般論として,暗記専門またはパクり専門の評論家や似非法学者は別のことを述べるかもしれないが,私は,「cybernatics (syn. automaton)」の理論を徹底的に研究し,自分自身にとって疑問の余地が全くないような概念枠組みを第三者的に観察・検証できるレベルにならなければ,サイバー法の学者ではないと考えている。

無論,他者の研究成果をパクり,あたかも自分自身の業績であるかのように見せかけることのできる極めて優れた「秀才型」の者が数えきれないほど多数存在している。私の苦悩のかなりの部分がそのような生来的な泥棒のような人々の行動の結果として生じている。

とは言っても,彼らは,死ぬまで,自分自身の実力の一部として新たな理論を創出できない。生まれつき,そのような脳構造(=遺伝子組成)をもっていないからだ。

このことは,ジョルジュ・デュメジルの比較神話論の論理構造及びその論拠とされている様々な資料や事象を徹底的に研究している間に気づいた極めて貴重な成果の一つだ。

くどくど述べたが,要するに,(サイバー法に関しては)現在の私の学術上の立場のスタートラインを決定づけたのは,クリス・リードだと言える。

しかし,明治大学の『法情報学』の講義の中で述べ続けてきたとおり,帰納法を重視するとすれば,特定の学者の理論的立場や特的の学説とは無関係に,自分自身の力により,帰納法によって,一般理論を見出すための努力を(死ぬまで)継続することになる。

実際,私は,そのようにして生き,そのようにして死ぬことになるだろう。

その日がいつ来るかはわからない。

諸般の事情により,精神的にも肉体的にもひどく消耗してしまったので,明日,その日が来るのかもしれない・・・と毎日思っている。

 

***

 

情報社会論全体に関して,私の学術上の立場のスタートラインを決定づけたのは,アルビン・トフラーだった。トフラーの学説を基盤として『ネットワーク社会の文化と法』を書いたことは,正解だったと思っている。

トフラーは,死ぬまで思索と執筆を続けていた。

彼の晩年の著作は,AIの問題を考える上でも示唆を与え続けている。

仮に,「知識」をsemanticsとは無関係に符号としてのみ理解する立場(=semanticsに関して不可知論を採ると必然的にそうなる)をとった場合,トフラーのいう「パワーシフト」の主体は,人間の何万倍ものデータ記録が可能な(=現在では人間の脳細胞数の何万倍もの素子単位で構成されるニューラルネットワークを構築可能な)人工知能に収斂的にパワーシフトするという結論以外にはなさそうに思われる。

AIという新たな新興宗教のようなものを信ずる人々の脳内にはそのようなイメージが大繁殖しているのではなかろうか?

しかし,そうはならない。

想定すべき「知識」の構造理解が間違っているからだ。

 

***

 

現在,私は,クリス・リードの理論ともアルビン・トフラーの理論とも異なる「(世界に対する)理解」を基盤として思索を続けている。

法解釈学としての「サイバー法」に限定すると,かつてネットワーク法学会で講演した際の講演内容のとおりであり,その中の最も肝心な部分は拙稿「情報社会の素描」の中にある情報セキュリティ関連の箇所で述べたとおりだ。

この論文の記述によって全ての要素が包摂されている。そう思えるかどうかは,読者の教養と知力と感性によって異なる。

来る12月9日に予定されている情報ネットワーク法学会の講演では,更に別の視点から(どちらかというと法哲学と法解釈学の境界領域と関連させて)現在の私見を述べたいと思い,その準備を進めている。

ただ,知力も視力もPC操作能力も忍耐力も(老化により)著しく劣化しているため,立派なプレゼンテーションを準備することは既に無理だ。

ここは,レッシグのやり方を見習って,1画面に1単語だけというような感じのプレゼンテーションにしようかとも考えたけれども,ものまねだと言われたくないので,やれる範囲内で私流の簡素なプレゼンテーションを作成しようかと思う。

その提出のための締め切りが迫っている。

 

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