カルネアデスの板
私は,かつて,「一般名称を用いた商標-Elemis事件判決を中心とする考察-」の脚注の中でカルネアデスの板に触れたことがある。
私の論文の読者の中には「脚注ファン」というタイプの人がいて,あるとき,某政治経済学部の某教授から上記論文のカルネアデスの板に触れる質問を受けることがあり,しばし意見交換したことがある。つたない論文なのに読む人は読んでいるのだと知り,驚いた。
それはさておき,カルネアデスの板を引用して比喩的に説明することには一定の危険性があることに最近気づいた。それは,「板」である以上,「固定的な大きなと浮力をもっている」と誤解されてしまう危険性だ。
しかし,そもそも比喩なので,具体的(物理的)な大きさや質量をもつものではない。
特に,板を奪い合う者が君主だと仮定した場合,君主の欲望が小さければ板は十分な大きさと浮力を維持し得るが,君主の欲望が大きくなると総体的に板の大きさと浮力が小さくなってしまう。
だからこそ,古典的な比喩だとして尊重されるべきものであり,私も引用した。
しかし,そのように理解するためには,一定の知性と教養を必要とする。
ところが,日本全土で知性と教養の劣化が進んでいる。
私は,受講学生に対しては,スマートフォンとネット上のコンテンツに頼ることなく,書籍として図書館に収蔵されている古典を(できれば原書で)読み漁ることを推奨しているのだが,どれだけの学生が理解してくれているのやら・・・
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