刻苦勉励・滅私奉公ではない時代の実装・運用
法律を制定しただけでは,「ソースコードがある」というのと同じような状態のままだ。現実の運用環境が異なっている場合,それぞれの環境に適応させるために必要なチューニングを行い,当該環境で実行可能な言語により実行プログラムを生成してその環境に実装(implement)し,そして,実装された実行プログラムを現実に実行(実施)して行われる運用(operation)と同じようにする必要がある。その場合,ソースコードと実行プログラムとが機能と結果出力において均等(equivarent)であるかどうかの評価(assessment)と見直し(review)も必要となる。
現代の日本の法学教育においては,ソースコードはおろか,要求仕様さえ明確に定義されないまま,好き勝手な議論が横行しているように見える。そのようなものは,少しも機能的ではないし,合理的でもないし,生産的でもない。
要求仕様が明確化されていない以上,要求仕様を実現するための基本的な仕様や詳細仕様を確定する段階に進むこともない。
例外は,サイバー法や情報法等を専攻する研究者の中で(比較法を基礎として)実定法の調査・研究・解釈をとことん重視する立場の人々だけではないかと思う。
さて,奴隷労働との批判を受けるかもしれないが,これらの実装及び運用の業務を日常業務として適正に遂行するためには,本当は,刻苦勉励・滅私奉公を必要とする。
古い世代の有能な職員は,(公務員であると私企業の従業者であるとを問わず)そのように理解し,そのように行動していた。
しかし,現代社会は異なる。
定時に事業所を退出するのが普通であり,業務遂行よりも私生活を優先する。
そのような社会や風潮を批判しても何らの解決にもならないので,そのような時代環境または社会環境にあるということを前提にした上で,対応策を考えなければならない。
刻苦勉励でも滅私奉公でもない人々による業務遂行は,当該仕事の精度や達成度を可能な限り高めるという努力をしない。時間単価に対応する労務の提供だけが全てであり,その精度や達成度を特に問題にすると「パワハラ」または「労働強化」と非難を受けることになるので,結果的に,(少なくとも表だっては)仕事の精度や達成度を問題にすることもなくなる。
それゆえ,現実には「非常に凡庸な人材しか存在しない」という前提で行政運営や企業運営を設計し直す必要性がある。
そうすると,どのような組織においても,現実には,極めて低レベルの成果しかでないことにならざるを得ない。
唯一の解決策は,現代社会において例外的な人材だけを重用し,費用対効果がまるで比較にならないほど異常に高い少数精鋭主義的な運営を考えるしかない。
もしそうしたとすれば,寡頭制の鉄則が自動的に実現されることになる。
そのような少数精鋭主義を忌避すれば,何も変わらないまま劣化を進行させることになるので,その国の全体的な能力が包括的に低下し,他国の侵略を受け,全国民が滅びることになる。
EUにおける公務員登用方式である官吏と一般公務員(官吏以外の公務員)との明確な区別は,かつては,日本国でも厳然と機能しており,官吏と雇いとは全く異なる階層の人々として日本国の公務員制度が構成されていた。戦後間もない頃の動乱期に社会の左傾化を避けるための妥協措置として欧州と同じような官吏と雇いを区別する制度が廃止されたのだが,EUでは厳然としてそのような登用制度が維持され続けていることの意味を理解する必要性がある。
そうはいっても,日本国だけではなく,世界中のほぼ全ての国における過去の歴史がそうであったように,何百年に一度かの確率でやってくる社会構造の全面的な再構築の時期が到来でもしない限り,現状が変わることはない。
それゆえ,あくまでも現状を前提としたままで,可能な改良を尽くすしかない。
現状を前提とした上で,従来とは全く別の発想が実装・運用できるような仕組みを考え出す必要性がある。
しかし,結局のところ,改良だけでは本質的な問題を何も解決できないということは,幕末における徳川家による統治をみても明らかだし,これまで日本国の産業界が辿ってきた道をみても明らかなことだ。一般に,どのような国家体制も開始から100年ほどで顕著に劣化を現すようになり,開始から200~300年くらいで機能しなくなる。
では,今後の日本をどうすべきかなのだが,それは現在の若い世代の仕事だと言える。私には私の考えがないわけではないが,既に過去の人材となってしまったような老人がいきなりしゃしゃり出てもろくな結果を招かないことが明確に予想できるので,控えることにしている。
そこで,ざっと見渡すと,既存の錆びた政治思想や社会思想を受け売りするだけのような人材は存在しても,自分の目で確かめ,地道に調査と研究を尽くし,自分の頭で新たなパラダイムを構築しようとする人材は,極めて稀有であるように見える。
実質的には先人の業績の単なるコピペの蓄積に過ぎないものを自分のものだと自慢するような「秀才もどき」はいくらでも見つけることができる。しかし,そのような者は,先人の業績を示す文字列を脳細胞という名の石棺の中に「蔵置」しているようなもので,それをありがたいと拝む人々にとってはありがたいものなのかもしれないが,ただそれだけのことに過ぎない。
残念なことだと思う。
[追記:2021年8月26日]
上記で「蔵置」と表現した趣旨は,古代の古墳の中から考古学上の調査の結果として発見されるまでは土中に埋蔵されたまま取り出せない状態になっており,考古学上の調査の結果として古代の古墳内の石室等から遺品として発見された古代の鉄製直刀等がそのままでは武器としての効用を何ももたない状態になっているということを比喩的に示すための表現である。
単に丸暗記されただけの符号列(=意味内容や理解へのリンクをもたない符号列)は,そのようなものと類似しており,脳内に記憶されていても符号としての効用を発揮することがない。そのような脳組織は,人間の思考作用のための効用を十分に発揮できないように調教され尽くした脳だと言える。
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