隠れキリシタン
以下は,あくまでも架空のSF小説的な妄想の一種。
ある国では,独裁制が実施されており,キリスト教が禁圧されていたと仮定する。
しかし,日本国の江戸時代と同様,隠れ切支丹は存在する。独裁者の像のように見せかけたキリスト像やマリア像を礼拝する。
そのような隠れ切支丹のような人物が当該国の報道官のような重要な職務に就いていた場合,どうなるか・・・
私は凡人なので,私だったらとても耐えられない。
発狂するか自殺するか・・・そのどちらかだろうと思う。
今になって読み直してみると,遠藤周作『沈黙』は,(映画化された映像作品も映画館で観たことがあるのだが)かなり楽観主義的というか,現実無視の理想主義を基礎とするものだろうと思う。
現実の人間は,もっと弱く,醜い。そうしなければ生きていけないからだ。
しかし,あちこちの遺跡や古い神社や寺院を廻りながら思うことがある。
それは,とんでもなく悲惨で過酷な状況の下にあっても信念を貫き通した人や,あるいは,自分が犠牲となって人々を救おうという一念で即身成仏した僧侶がかつて存在したということを理解し,忘れ去られた遺跡のような場所を訪問し,その前で黙って合掌しながら自然と私の胸の中に湧き上がってくるある種の感情のようなものだ。
極めて主観的なものなので,他者とは共感できないものかもしれない。
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