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2021年5月 4日 (火曜日)

ピエール・ブーレーズ

最近,ちょっと気になってピエール・ブーレーズのことを調べ続けていた。

結論として,凄い才能の持ち主(天才?)ではないかと思う。

ブーレーズは,2009年に京都賞受賞の際に「人生における普遍的なあるべき考え方」との質問を受け,「好奇心を持ち続けること」と応えたと伝えられている。

まさにそのとおりだと思う。

ただし,十分な好奇心は,誰にでも備わっている才能というわけではない。しかし,現時点において好奇心の対象が存在しないということは,その者に好奇心がないということの証明にはならない。環境条件の影響と間違った三流教育によって好奇心が発現しないようにされてしまっており,本人もそのように思いこんでいることがあるからだ。そして,妙な常識的な因習のようなものを捨ててしまえば,自然と好奇心が発芽しやすいような精神的状態を自分で形成することができる。
この点に関して,プロファイリングは無意味だと思っている。基本的に,プロファイリングは凡人が構築した仕組みに基づき凡人が運用するものなので,真の才人を識別する機能を全くもたないし,これからももつことがない。

ただし,そのような状態がその者にとって幸福なことかどうかはわからない。歴史に学ぶところによれば,不幸の原因となっていることの方が多いようにも思う。何の才能もない凡人であり続けることは非常に幸福なことかもしれない。特に,特定のタイプの政治体制下においては,好奇心をもっているというただそれだのことで粛清の対象となり得る。
その意味では,好奇心を実現するためには「運」のようなものも大きく作用していると言わざるを得ない。

一般論として,好奇心を持続すると,結果的に,その者の人生は実験的な人生となる。世間からは白い目で見られることや非難されることや誹謗中傷されることがが非常に多くなる。
それでもなお,騒音には構わずに好奇心を燃やし続ける場合,それは真に好奇心であると言えるだろう。

好奇心のない者からは何らのブレークスルーもパラダイムシフトも生まれない。

私は,「人生とは実験だ」をモットーとしている。

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