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2021年5月 6日 (木曜日)

ヨハンネス・オケゲム『ミサ曲 ド・プリュ・ザン・プリュ』

若い頃にはNHK FM放送でルネサンス~バロック期の音楽を流す番組でしばしば放送され,何度も聴いた曲。

音楽理論家の説によると,オケゲムの作とされる楽曲の中には,真作と偽作とが混じっているらしい。(音楽学者ではない私としては)何とも真偽の区別をつけようがないのだけれども,とにかくオケゲムの曲として何百年もの間伝えられてきた曲を聴くと,とても美しく,和声と旋法が心に深く染みこむ思いをしたものだった。

先日,何の気なしにAmazonのサイトを見ていたら中古のCDが出ていたので購入することにした。

かつて,「これ以上素晴らしいコーラス団体は存在し得ないのではないか」と思いながら聴いたタリス・スコラーズの演奏による『Johannes Ockeghem: Au travail suis - De plus en plus』 (PHCP-1936 454 935-2)というCDだ。

若い頃にじっと聴き入っていた頃の自分に戻ったような気がした。

その頃から何十年も経て聴きなおしてみても,やはり美しい。オケゲムの時代の曲の定型的な終止形が私の心に響く。

このCDに収録されているミサ曲『De plus en plus』とミサ曲『Au travail suis』は,いずれも当時のシャンソンを原曲として構成された曲とはいえ,キリスト教の典礼のためにつくられたものだ。ところが,日本の仏教の声明でも最高レベルで洗練された演奏の場合,オケゲムの楽曲を高度に洗練されたレベルで演奏されるときと同じような性質をもった感動を与える。

キリスト教と仏教とでは宗教の教義も様式もまるで異なっているのだが,宗教音楽における「美」というものには何かしら共通するものがあるのではないかと思う。

現代に近い時代のブルックナーの『テ・デウム(Te Deum)』も大好きな曲で,特に終曲の「In te, Domine, speravi」が好きなのだが,ブルックナーの曲は,大規模なオーケストラが発達し,バッハの『ミサ曲 ロ短調』や『マタイ受難曲』,モーツアルトの『レクイエム』,ベートーヴェンの『荘厳ミサ曲』のような大規模な楽曲を人々がよく知っている時代につくられたもの。ブルックナーの時代には,人々は,オーケストラと一体となった合唱団やソリストが演奏し,金管楽器群によるファンファーレが高らかに奏される曲こそが宗教音楽だと思うようになっていた。それらの楽曲は,実に豪華絢爛たるものであり,無論,天才による素晴らしい楽曲であることは疑いようがない。

しかし,そもそも1人または数名の楽器奏者を抱える貴族というだけで相当の財力をもった貴族だった時代よりも更に古い時代に声楽だけで教会音楽をつくり,限界までトライし続けた天才的な作曲家が存在したことに驚嘆する。今後も,私が生きている限り何度も驚嘆することだろう。

使える道具が非常に限られていても天国の音楽を作曲することが可能なのだ。

現代の楽曲の多くは,電子楽器を使用する。そのため,電気が停止すると演奏不可能に陥る。

声楽だけであれば,蝋燭の灯の下で唄い続けることができる。

いったいどちらの方が精神的に豊かな状態だと言えるのだろうか?

***

オケゲムのミサ曲『Au travail suis』の終曲「Agnus Dei」を聴いていると,ブルックナーの器楽だけで構成された交響曲中の静かでゆったりとした部分を聴いているかのような錯覚に陥る部分がある。

とても美しい曲だと思う。

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