ブルックナーの交響曲第9番
ブルックナーの交響曲第9番は,未完で終わった楽曲であるせいかどうか,その解釈と演奏が多様なものとなっている。
それぞれ聴き手の趣味の問題でもあるので,どの指揮者とオーケストラによる演奏が一番良いとか悪いとかいう講釈の類はほとんど無意味だと思う。
しかも,私は,音楽学者ではないので,素人として自由に聴き,意見を述べることのできる立場にある。「当該分野の専門家ではない」ということの自由さとありがたみを日々痛感する。
それはさておき,楽曲の構造が透けて見えるという意味では,(オーケストラの金管が部分的にもたつくという難はあるけれども)ギュンター・ヴァントの「原典版」による1998年のライブ録音による演奏が最も優れているのではないかと思う。全体としてみると,非常に完成度の高い演奏の1つとして評価可能だと思う。
この演奏は,大規模オーケストラによる演奏なのに,まるで室内楽であるかのような透明感に溢れ,ポリフォニックとでも表現し得るようなブルックナーの楽曲中における複数の「流れ」の絡み合いと合流(ユニゾン)の繰り返しがまるで川の流れを上流から下流まで河岸を散歩しながらながめてでもいるかのようによく見える。実際に小川の流れを楽しみながら散策した経験を豊富にもつ人であれば,私が何を言いたいのかわかってもらえるだろうと思う。レオナルド・ダヴィンチのように流体の運動の細部を仔細に観察したいのであれば,それにも向いてる演奏ではないかと思う。アーティキュレーションがとても美しい。
弦楽器のピチカートの部分は,シューマンの交響曲からの流れによるものではないかと思う(そのルーツは,ハイドンの「時計」交響曲かもしれない)。現実から飛び出した(白日夢のような)夢想の世界を刻む時計の音。そんな感じだ。そのような音は,プフィッツナーのヴァイオリン協奏曲,プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲,スクリャービンの交響曲,シベリウスの交響曲の中にも見え隠れする。
感情移入は聴き手の自由なので,聴き手それぞれの個性に応じて,各人各様のベスト演奏のようなものがあるだろうし,それで良い。思想・信条の自由が認められているので,そうでなければならない。
以上の前提で,あくまでも素人の直観的な感想としては,第9番の交響曲はブルックナーの交響曲の中でも特別の存在のように感じる。
シベリウス,コルンゴルト,プロコフィエフ,ショスタコーヴィチ,ペルト,カンチェリ等へとつながる要素をふんだんに含んでいる。ブルックナーの音楽の底流にオケゲムのような古い教会音楽の伝統があることは疑いようがなく,例えば,ペルトは,そのような部分に触発されて自分自身の音楽の世界を構築し始めたのではないかと想像される。
別の表現をすれば,現代の社会において,映画音楽やBGM,あるいは,ジャズやロックやポップスの名曲を通じて普通に耳にする音楽スタイルの基礎が全て存在している。
私は,シベリウスの音楽がブルックナーの音楽の直系の後裔のような気がしてならない。
私が大好きなシベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴き,そして,ブルックナーの交響曲第9番を聴く度にそのように感じる。
そして,ブルックナーの交響曲第9番の第3楽章の最後の部分を聴くと,ブルックナーは,第4楽章を完成できないかもしれないということを直観的に理解していたのではないかと感じる。そのため,交響曲第7番のモチーフを通じて,第2番や第3番の交響曲を書きあげた頃のワーグナーとの出会いと交友を回想しているかのような気分をもたせるものになっている。
ブルックナーが存命中にブルックナーの音楽の神髄を理解できた作曲家がどれだけいたのかは不明だ。
マーラーだけはわかっていたという伝説的なエピソードが幾つかある。しかし,私の理解では,マーラーの音楽世界とブルックナーの音楽世界とはかなり異なるものだろうと思う。個人的には,ブルックナーの音楽は,いわば「祈りの音楽」のようなもので,マーラーの音楽は,「もがきの音楽」のようなものと感じる。
そのように自分の内的世界が全く異なっていても,結局,「天才を天才として認めることができるのは天才だけだ」というあたりが非常に興味深い。
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