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2021年4月16日 (金曜日)

Edith Peinemann WDR Concerto Recordings

Edith Peinemann WDR Concerto Recordings (WEITBLICK SSS0204/0205)という2枚組のCDを購入し,収録されているベートーヴェン,メンデルスゾーン,プロコフィエフ及びシベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴いた。どれも大変な名演だと思う。感銘を受けた。
以下は,音楽評論ではなく,素人の感想文。

パイネマンとカイルベルト指揮ケルン放送交響楽団によるメンデルスゾーンの協奏曲は,現在主流のスタイルとは異なり,比較的ゆったりとしたテンポの演奏。第2楽章のソロのアーティキュレーションは,これまた現在主流のスタイルとは少し異なるが,あたかも歌詞のある楽曲を丁寧に唄って聴かせるかのような演奏で,心にしみるとても美しい演奏だと思う。

プロコフィエフの協奏曲は,他の演奏者によるCDを既にもっており何度も聴いている。しかし,パイネマンとギュンター・ヴァント指揮ケルン放送交響楽団の演奏を聴いてみて,この曲が極めて美しい現代の傑作の1つなのだということを認識した。歴史に残る名演だと思う。それにしても,演奏者によってかくも変わるものか。

パイネマンとカイルベルト指揮ケルン放送交響楽団によるシベリウスの協奏曲は,これまた馬力でぶっとばすようなタイプの現代の演奏スタイルとはかなり異なる。しかし,実に美しい。演奏者にとっては難曲中の難曲として知られる曲だが,パイネマンが非常に優れた技量と高い音楽性をもつヴァイオリン奏者だということを証明する名演だと思う。パイネマンがジョージ・セルから評価を受け,可愛がられたという理由がわかるような気がする。
ちなみに,私は,様々なことに失望しそうになると,小国フィンランドと大帝国ロシアとの関係を思いながらシベリウスの協奏曲の第3楽章を聴き,元気を取り戻すことがときどきある。
だいぶ前のことになるが,フィンランドを訪問した際,スオメリンナの要塞を見学し,往時のことをあれこれと想像したことがある。

ジョージ・セル指揮ケルン放送交響楽団によるベートーヴェンの協奏曲は,これまた現在主流の演奏スタイルとは大きく異なるものなのだが,名演だと思う。全体として納得度が高い。

ジャケットの中にはパイネマン自身による丁寧な解説文が含まれており,とても興味深かった。彼女の目から見た大指揮者達の自然な姿がちょっと見えたような気がする。

同じような演奏者自身による解説文は,ヒラリー・ハーンの演奏した曲のCDの中にも含まれており,これも興味深く読んでいる。

パイネマンもヒラリー・ハーンも天才の一員なのだと思う。しかし,いずれの場合においても,単に「神が微笑んだ」というだけではこれだけの偉業を成し遂げることはできない。

 

[追記:2021年4月17日]

パイネマンが演奏したシベリウスの協奏曲の別録音があることを知り,そのCDを購入した。

その演奏は,エルネスト・ブール指揮による南西ドイツ放送交響楽団(SWR)との競演によるもので,Edith Peinemann - The SWR Studio Recording 1952-1965 (SWR19074CD)というCD5枚組のボックス製品のCD5に収録されている。オーケストラの方は,カイルベルトの演奏と比較するとかなり野趣溢れるものなのだが,パイネマンの演奏は,どちらの演奏でも基本的に変わらない。

私が注目したのは,このCDにおけるデジタル化処理技術が極めて高度なものであるようで,原版がモノラルであることを忘れてしまうようなレベルの鮮明さをもった録音だということだ。パイネマンの指使いや弓使い,そして,全身の動作まで全部見えてくるようなとても優れた録音技術とデジタル化技術だと評価できる。

この演奏の録音を聴いて,パイネマンの技量と音楽性が信じがたいほどに優れているということを更に確信することができた。

届いたばかりのCDセットなので,まだCD5しか聴いていない。CD5にはシベリウスの協奏曲と一緒にプフィッツナーのヴァイオリン協奏曲(ハンス・ロスバウト指揮による南西ドイツ放送交響楽団)も収録されており,かなり興味深くこの曲の演奏を聴いた。どちらの協奏曲の演奏も大変な名演だと思う。

プフィッツナーが生きた時代の社会・政治状況の残滓のようなものを現代社会が引きずっていることのゆえに,彼の作品が演奏される機会はあまりないだろうと思う。この点は,逆の意味でブルッフの場合も同じで,ブルッフは,現在でもなお,ヴァイオリン協奏曲第1番以外の曲が演奏される機会は滅多にない。ブルッフの作品が全体として次第にひどくマンネリ化したということに最大の原因があると思われるが,しかし,(誤解に基づく)別の社会的・政治的原因もあると考える。

ブルッフが毛嫌いしたというリヒャルト・シュトラウスが作曲したアルプス交響曲を聴くと,山頂に登頂成功した歓喜の場面のモチーフがブルッフの協奏曲第1番(第2楽章)における歓喜のモチーフと同じだということを認識できる。リヒャルト・シュトラウスは,ブルッフがリヒャルト・シュトラウスのことをどう思おうとお構いなしに,ブルッフの作品に対する敬意をもっており,オマージュの一種としてアルプス交響曲を作曲したのではないかとも考えられる。あるいは,「俺なら単純に歌い上げるだけではなく,もっと多様かつ効果的に変化させることができるぞ」と言いたかったのかもしれない。
この点に関しては,ブラームスのヴァイオリン協奏曲でも同じように感じることがある。人間の心理は,しばしば矛盾がそのまま平気で居座っているものだ。
ちなみに,同じモチーフは,マーラーの交響曲第2番の最後のところにもある。

プフィッツナーのヴァイオリン協奏曲は,楽曲全体の解釈・把握・理解が非常に難しく,演奏者によって相当に異なる解釈による演奏となるのではなかろうか。
あくまでも素人としての私の理解では,無調整を含む様々な(頭でっかちなだけの)実験的な現代音楽における混沌に対する批判から始め,ブルックナーやマーラーの音楽とのかかわりと苦悩を経て,現代音楽の中に混合して溶けこむわかりやすい調整音楽の優位性を宣言する曲なのではないかと思った。また,(ブルッフの協奏曲第1番やサンサーンスの協奏曲第3番の中にメンデルスゾーンへのオマージュが含まれているのと同じような意味で)プフィッツナーの協奏曲にはシベリウスのヴァイオリン協奏曲へのオマージュが含まれているように感じる。
プフィッツナーの協奏曲は,高度の演奏技術を要求されるというだけではなく,曲全体の解釈が非常に難しいという意味でもかなりの難曲の1つだと思う。曲の本質を理解するために楽譜をじっと読むだけでは足りないという点では,プロコフィエフやショスタコーヴィチの楽曲と共通するところがあるようにも思う。
プフィッツナーの協奏曲の第1楽章~第3楽章への流れをじっと聴いていると,後の時代に,カール・オルフが『Trionfi』のような楽曲を書いた理由が何となくわかるような気がしてきた。
プフィッツナーの協奏曲が作曲されてから約15年後にバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番が作曲された。楽曲の構造(骨格)は,よく似ていると思う。しかし,その構成要素は,どの部分をとっても進む方向がまるで違っている。そして,バルトークの協奏曲のようなスタイルの楽曲が優勢となって今日に至っていることは言うまでもない。
現在も今後も,優美で感傷的なメロディを創作し,ロマン派の延長のようなヴァイオリン協奏曲を作曲できる天才の出現を期待できるような情勢の下にはないと思う。

それにしても,シベリウスの協奏曲においてもプフィッツナーの協奏曲においても,パイネマンのヴァイオリンの音色はとても美しい。

以上は,音楽評論ではなく,素人の感想文の追記に過ぎない。

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