Autonomous
Auto+nomosの合成語であるとされている。
意味的には,他からの干渉を受けることなく独立して判断する存在のことを指す。
他からの干渉を受けないということは,人間の干渉も受けないということを意味する。
例えば,人間は,野生動物を殺傷することは可能であるけれども,彼らの判断それ自体に干渉することはできないので,野生動物もAutonomousの一種である。
ところで,完全に自律型のロボットもAutonomousの一種である。
現行のISOの定義による産業用ロボット(Robotics)は,人間が管理・制御可能な対象であることを当然の前提としているので,Autonomousではない。
もし,何らかの人工生成物(機械装置,人工生命体,サイボーグ,アンドロイド等)が完全に自律的であるという場合,それらは,人間の管理・制御不可能な存在でなければ,概念矛盾となる。
この場合における「管理・制御」の手段には「法」も含まれるので,完全なAutonomousである人間以外の対象に対しては,人間の社会における法による統治または法治主義の適用可能性も客観的に存在しない。
以上から,あくまでも論理的には,完全に自律的なロボットは,人間の干渉(管理・制御)を受け付けない存在であるがゆえに,いわゆるロボット法の分野において「人間の関与の確保」を考究することは全く無意味なことである。
そうではなく,人間が管理・制御できない対象に対して,人間が劣勢となり,それらによって滅ぼされないようにするためにはどうすべきかを考えるのがロボット学の本体的な部分でなければならない。
人間が管理・制御可能な対象であることを前提とする限り,いわゆる「ロボット法」は,学術的には,全く無価値である。
[追記:2019年4月29日]
日本国の多数の学術団体等を現在でも支配しているのは政治的イデオロギーとしての唯物史観の人々である。
一般に,唯物史観の論者は,いわゆる「ロボット法」の研究においても「人間が支配可能」という観念を捨てることができない。それを捨てると,「唯物史観において人類社会の完成形態とされている共産主義社会が到来する前にロボットによる社会が完成してしまい,共産主義社会が永久に到来しないということがあり得る」という論理を認めることになり,唯物史観の論理それ自体を完全に自己否定せざるを得なくなるからだ。
それゆえ,このことは,当該業界に通じていない人が「誰が唯物史観の持ち主であるか」を知るためのリトマス紙の役割を果たすことがある。
私自身は,唯物史観が誤りであると考えているし,多数の論文を通じてそのような論証を重ねてきた。過去の政治学基礎理論の中で正しいのは「実力説」及び「国庫説」のみである。
ロボットまたは産業用ロボットの構築に関しても積極的ではないし,賛成もしていない。
しかし,日本国の国富の増加のためにどうしても必要だというのであれば,日本国の産業界及び政府関連官庁は,(理論的には人間が管理・制御不可能なものである)「完全に自律的なロボット」の構築をめざすのではなく,あくまでも,(人間によって設計された基本的な枠組みの中でのみ動作する)「産業用ロボット」の構築だけを目指すべきであるし,そのように宣言すべきである。
そのような宣言は,産業界だけではなく,唯物史観の人々にとっても受入れ可能なものであろう。
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