pacta sunt servanda
「pacta sunt servanda」は、ローマ法の格言の1つであり、法理論の基礎をなすものである。日本国の大学法学部においては基本的な概念として必ず習得しなければならない概念の1つであり、それを修得していない者は法学を学んだとは全く認められない。
この概念は、政治学における契約説を採用する場合においても重要である。とりわけ、EUは、諸条約により、政治学上の契約説を必須の前提として統治組織と統治の基本原理を定めており、それらがEUの基盤理念、すなわち、「共通の価値観」を構成している。逆から言えば、「pacta sunt servanda」を知らない国、または、それを無視する国は、EUと基本的な価値観を共有できない国であることになる。
このことは、アメリカ合衆国においても基本的には同じである。アメリカ合衆国の独立宣言及び憲法は、そのことを明確に示している。これらの事項は、日本国の法学部または政治学部においては基本的な概念として必ず習得しなければならないものの1つであり、それを修得していない者は法学または政治学を学んだとは全く認められない。
かつて、上記のような意味における共通の価値観を共有できない国または人々のことを西欧人は「蛮族」と呼んだ。とりわけ、約束または契約の拘束力を知らない人々は、「蛮族」として扱われた。
では、日本国は、明治維新の折、どうして「蛮族」として扱われることを免れることができたのであろうか。
それは、仮に内容的に不条理なものであっても国際的な約束を遵守し、債務があれば、自助努力によってその債務を完済したからにほかならない。そして、そのようなことに精励できた精神的背景としては、「決まったことは決まったことだ」と認識して受容する精神的風土が存在していたからだと考える。
そのような精神的風土は、江戸時代以降の朱子学の影響としても理解可能かもしれないが、少なくとも『古事記』や『日本書紀』や『続日本紀』を読む限り、遅くとも律令制が確立された時代にはそのような観念がかなり広範に存在していたと考える。それが成立した背景事情に関しては諸説あり得るであろう。私見としては、朝廷の軍事組織による攻略と屯田という歴史が存在したからそうなったのだと考えている。
極めて繁忙な仕事の合間に、長い年月をかけ、全国各地の遺跡(特に古墳)を実際に見て回り、その遺跡発掘記録や調査報告書の類を精読してきた。もしかすると例外が存在するかもしれないが、大型古墳からは、(遺物が残存しているときは)必ず、太刀(直刀)等の刀剣類、兜、冑、弓矢等の武器・防具、馬具、支配地(屯田)の耕作に使用したと推定される農具、そして、(残存しているときは)男性の遺骨等が発掘されている。それらは、細部の相違はあるかもしれないが、基本的には、ほぼ同じ時代のものについては類似点の多い(または、全く同じ)特徴をもっている。非常に身分の高い者のものと推定される古墳から出土する極めて高価な素材を用いた装飾品の例は結構多数あるが、そのようなものを除くと、一般的には、現代では司令官クラスまたは部隊長クラスに相当する武人の墓であると推定すべきものが圧倒的に多い。これらは、土着の豪族が成長し、武器・防具等を朝廷から下賜されたものと推定するよりは、征服者である武人が駐屯(屯田)し、その地の征服後の初代の支配者となった証として保有していた(または、子孫に伝承された)ものと推定するほうが合理的である。つまり、遅くとも歴史時代の日本国(倭国)は、最初から武家社会として存在していたと考えるのが正しい。神武天皇の事績に関する神話は、そのことを象徴化するものであると言える。神武天皇の事績は、武力により征服し、征服地の統治を確立したということに尽きる。『常陸國風土記』にあるヤマトタケルの伝説もそうであり、それ以外の『風土記』にある天皇親征の事績も全て同じである。正史『三国志』にある邪馬台国に関する記述も基本的には同じ構造をもっている。その点において、唯物史観は全面的に排除されるべきである。
そのような歴史的背景があるとはいえ、GHQによる支配下において徹底した非武装化及び民主化が進められた後、現代に至るまで、「決まったことは決まったことだ」という基本観念は維持されていると考える。
そのような素朴なレベルにおける基本観念として、「pacta sunt servanda」を知らない国、または、それを無視する国は、現在の日本国との関係においても、基本的な価値観を共有できない国または人々であると理解すべきであろう。
(余談)
かつて高名な某教授は、法学部の期末試験問題として、「契約を破る自由」について論じさせる出題をしたことがある。
私としては、「契約を破る自由はない」と書けば良いと理解している。無論、これだけでは十分とは言えないが、その理由をきちんと述べることができれば、当然、合格答案となる。すなわち、「pacta sunt servanda」である。
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