布都主神
「布都」は,「ふつ」と読ませる。
「豊城入彦命」の「豊」は,「とよ」と読ませるが,「ふ」と読み得る。そして,「城入」または「城」とは「都」のことであるので,「豊城入」または「豊城」=「豊都」であり得る。つまり,「豊城入」は「ふつ」であり得る。「入」を「ぬ」または「の」と読むことが可能であるとすれば,「豊城入」は,そのままで「布都主」とほぼ同じ音(読み)となる。
音読みとするか訓読み(または,非常に特殊な読み下し)とするかによる相違はあるが,『古事記』や『日本書紀』の編者は,ある程度までわかっていて意図的にそのような作為を加え,それによって,非常に古い時代のこととして重複して記載した人物があたかも別人であるかのように見せかけた可能性が高い。しかし,「淡海三船」とされる人物は,それらのことを知っていて,巧妙な仕掛けを細工しておいたのだろうと考えられる。唐に敗れた後の倭国における特殊な政治状況がそのようなことを必要としたのに違いない。
いずれにしても,このように考えてみると,鹿島神宮の神とは,まさに「豊城入彦命」のことであると推定することが可能となる。
鹿島神宮周辺の古代の地形から推定すると,その周辺は,かなり大きな水軍の本拠地であったと推定される。神宮の近くには大型の古墳群も存在する。現地を訪問してみて回ったことがあるが,当時,相当に優勢な勢力が存在していたことは,疑いようがない。
この地を本拠地として,現在の茨城県内各地の軍事的な平定(武による統治)が進められ,更に,北関東一帯の平定が進められたものであろう。
「ヤマトタケル」の神話に関しては,多数の異なる伝承を1人の人物に仮託して構成されたものだとの説が有力だが,たぶん,そのとおりなのではないかと思う。同じようなストーリーの話が別の人物の話として登場することがしばしばあり,長い年月の間にもともとの伝承の変形や派生のようなものが多数成立していたのだろう。
このような武力による倭国全体の平定が進行した時代は,魏・晋の時代~南北朝の頃ではないかと思われる。
その平定は,丹波のあたりから始まり,拠点を次第に移動させ,更に同心円状に倭国全体に及んだと考えるのが妥当である。伊勢神宮の場所的移動は,それに伴うものと考えることもできる。
これまでいろいろと考えてきたのだが,最近では,邪馬台国の「卑弥呼」は「狭穂姫命」の頃時代の人物,「臺與」は,「日葉酢媛命」の時代の人物ではないかと考えるようになってきた。なお,「狭穂姫」に関しては,「木花之佐久夜毘売」の伝承との類似性もあると考えられる。
『魏書』によれば,そのころの時代の倭国では何度も戦乱があったようなのだが,それは,魏・晋との関係強化(特に,当時における最先端の武器や文化の導入)によって勢力を拡大させた人々が倭国全体に支配を拡大させようとした結果生じたことではないかと想像される。
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