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2018年9月20日 (木曜日)

AI自動判断のBias tools

下記の記事が出ている。

 IBM launches tool aimed at detecting AI bias
 BBC: 19 September, 2018
 https://www.bbc.com/news/technology-45561955

 IBM Debuts Tools to Help Prevent Bias In Artificial Intelligence
 Fortune: September 19, 2018
 http://fortune.com/2018/09/19/ibm-artificial-intelligence-bias/

(余談)

バイアス(偏り)の有無は,ある判断基準を設定しなければ測定できない。

その判断基準それ自体が価値判断である場合,どういう結果になるのかについては,古代ギリシア時代以来,古典的な哲学の標準的な課題の1つであり続けてきた。

価値判断なので,未来永劫,その解はない。

価値判断を強要する武力(国家権力,ナマの暴力等)は,あり得る。しかし,それは,当該価値判断が正当であることの根拠には全くならない。単に強要されているという事実が存在するだけだ。それゆえ,ある価値判断を強要することのできる社会システムが存在している環境の中においては,「主流の考えだから」という主張は,常に,(客観的には)何ら正当性根拠とはならない。

なお,どこか遠い天国のようなところからものごとを観察することが可能であれば,少しは事態を理解できるようになる。

(余談2)

「一見すると無機的(没価値的)な基準であるかのように見える基準が,実はそうとは言い切れない」というような例は,無数にある。

例えば,国によって自動車の右側通行と左側通行とが異なっている。

どちらが正しいという判断基準を規範それ自体の中から見出すことは不可能なのだが,歴史を遡って調べれば,一定の価値観の強要である場合があることに気づくことができる。要するに,これは,法定のバイアスの一種なのだ。

そのように基準それ自体が価値的なバイアスそのものである場合,どう考えたらよいのだろうか?

数学と同じように,「座標軸は自由自在に設定可能である」と考えることで思考の一応の整理はつくのだが,それでは何の解にもなっていないことは,誰でも容易に理解できることだろうと思う。

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