弥永真生・宍戸常寿 (編)『ロボット・AIと法』
下記の書籍を頂戴していたのだが,パラパラめくっただけでそのままにしてあった。ちょっと必要があって全部精読してみた。
弥永真生・宍戸常寿編
『ロボット・AIと法』
有斐閣(2018年4月10日)
ISBN-13: 978-4641125964
この書籍の中でも触れられているドイツ刑法学における「ジレンマ問題」は,非常に古くから好んで議論されてきた。
人間だけの社会を前提とした場合,これからも議論されることであろう。もともと解はない。解はなくても,裁判官は(一定の価値観に基づいて)判断しなければならない・・・そのようなタイプの問題なので,議論が終わることは永久にないのだ。
問題それ自体が,古代ギリシアの時代からある「カルネアデスの板」と同じ問題なので,相当長い間議論されてきたことになる。しかし,解がないのだ。
真に考えなければならないことは,全く別のところにある。
それは,「AIシステムを守るだめに人類が絶滅しなければならない」という状況に直面した場合,そのシステムは,何ら躊躇することなく人類を滅ぼすことであろうが,そのような状況下においては,人間の尊厳よりもAIシステムの維持のほうが上位の価値をもっているので,上記のジレンマ問題がそもそも問題にならないということだ。
このように,人間以外の(場合によっては人間以上の能力のある)存在が当事者として存在しているという状況を想定する場合,古典的な「人間至上主義」の観念にとらわれている限り,問題の本質に気づくことはできない。
それゆえ,この種の問題を考える場合には,常に,即物的にのみ考えることが肝要である。
加えて,この書籍でもそうなのだが,機械装置だけを「ロボット」として把握する事実認識は,そもそも根本から間違っているので,基本的な定義どおり,「サイバネティクス=ロボット」という定式で考えるのが正しい。
世にあまたある類書の大半は,制御用ロボット(Robotics)だけをロボットと想定している。制御不可能な対象であれば,そもそも制御用ロボットではない。制御できて当たり前なのだ。
しかし,真に検討しなければならない問題は,制御用ロボットではないサイバネティクスから発生する。法学の対象は,そのような制御できない対象であるサイバネティクスという意味での「ロボット」に絞られなければならない。
制御できない対象は,法による統御もできない。
強いて言えば,絶対的社会隔離処分としての「破壊」,すなわち,人間で言えば死刑の可能性は残る。
このような観点からすれば,上記のジレンマ問題においても,他の者を一切殺すことなく,運転手だけが死亡するように自爆または脱線してしまうのが最も妥当な解であり得る。他人を犠牲にすることは正当化され,自分だけは生きのこることを必須の前提とするような立論は,そもそも公平ではない。
(余談)
上記と関連するテーマで論文を書こうと思い準備していたのだが,現時点ではやめておくことにした。どのように考えても,世間を騒がせ過ぎるような結論しか出てこないからだ。
別のテーマで論文を書こうと思う。
(余談2)
「ジレンマ」という名前のラン(Pleurothallis dilemma)が存在する。
松本洋ランから苗を購入し,何年もの間栽培を継続してきた。栽培は比較的容易で環境の変化に耐える力も強い。しかし,実際に何年も栽培を継続してみると,確かに,ジレンマを感じさせるランではある(笑)
[追記:2018年10月27日]
関連記事を追加する。
Driverless cars: Who should die in a crash?
BBC: 26 October, 2018
https://www.bbc.com/news/technology-45991093
| 固定リンク
コメント