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2018年3月 6日 (火曜日)

千葉修身:ドイツ「享益権」会計の制度構造

千葉修身先生から下記の論文の抜き刷りを頂戴した。

 千葉修身
 ドイツ「享益権」会計の制度構造
 経営経理111号43~67頁
 2018年2月28日発行

享益権に関しては,詳しいことをよく知らなかったので,とても勉強になった。

ドイツの制度であり,日本国の制度とは直接的な関係はないのだが,明治時代に全国で敷設された私営の鉄道会社が次第に国有のものとして接収された歴史的経緯の中ではどうだったのだろうかと興味をもったし,今後,JRの再国有化,または,私鉄が経営破綻した場合の国有化のようなことも発生し得るであろうし,また,純粋な国有ではないけれども,ローカル廃止路線が第三セクターとして衣替えして経営されている場合にはどうなるのか・・・というようなことも考えた。日本国の場合,いずれの場合でも,会計の明確性・透明性・説明責任が確保されていたとは思わないし,今後もそうなのだろうと思う。

更に,組織変更のベクトルとしては逆方向だったけれども,同じように出資者に対する清算義務が問題とされ得た出来事として,電信電話公社からNTTへの組織変更という出来事があった。

もし私が会計史の研究者であれば,そこらへんのところをまとめて研究してみようと思うかもしれない。しかし,私にはそのような能力は全くないので,千葉先生の論文を読んで知識・教養レベルでとどめるしかない。

とはいえ,私の専門分野においても関係する事柄が多々あることも事実だ。ネット上の企業活動との関連においても実質的にみて同じようなことが問題とされ得る部分が存在する。それゆえ,私の専門分野と関係する範囲内で,少し力を入れて,より深く勉強したいと思う。

この論文の脚注に引用されている原書を入手して読んでみようかと思っている。

***

「自由競争の確保のために国有企業を民営化するのが正しい」という信仰のようなものが随分と長い間人類社会を支配してきた。

無論,正しい面があるが,正しくない面もある。

労働政策及び社会政策という観点からすれば,別の角度からの検討も必要となる。

そして,自由競争の弊害が極度に進んだ場合にどういうことが起きるかというようなことは,各方面でさんざん議論されてきたことだ。

しかし,ざくっと考えてみた場合,国有企業と私企業の選択という現象は,結局のところ,当該国の総体的な国力の程度によって自ずと決まることなのであって,理屈によって定まることではないように思う。

理屈がどんなに正しいものであっても,それを実装・運用できないのであれば,国家が採用することはない。特に鉄道のような巨大なインフラではそうだ。

今後の社会において人が物理的に移動し続けるかどうか,そのために鉄道や航空機や船舶のような移動手段を利用し続けるかどうかは分からない。

EUの法令を読んでいると,人間や物資の自由移動のためにもIT(ICT)が必要だという信念のようなものが基底にあることを理解できる。しかし,事実の問題として,物体の移動と情報の移動とが同時に増加する場合とそうでない場合とがある。

経済現象というものは,非常に難しいものだ。

誰かが考えた特定の経済理論や政治理論だけで世界が動いているなどということは決してないし,仮にそのように信ずる者があるとしても,それは各人の信念の自由の領域内の問題なのであって,事実としての経済現象それ自体とは無関係のことが多い。

しかし,それだからこそ考えていて面白いのだ。

***

千葉先生の論文とは無関係のことだが,昨日,あるところである先生と意見の衝突が起きてしまった。私が短気なことにその最大の原因があるのかもしれない。しかし,私自身のための重要な反省点としても,自分が明確に述べたことを「述べていない」と平然と強弁することは人間としてとても見苦しいことなので(←社会一般においては,自分自身の自信のなさを表現する行為,または,自己保身しか考えない小さな人間として評価され得る行為として受け止められることが多い。),決してそのようなことがないように厳しく自戒して心がけることとしたい。もっとも,一般に,加齢の結果として,数分前に自分が述べたことを覚えていない,または,別のことを述べたかのように誤信してしまうということは十分にあり得ることだ。特に私自身の年齢を考えると,そのようなことが十分にあり得るということを想定した上で,何らかの手立てを考えないといけないと常に深刻に悩んでいる。

また,一般に,可能な限り広い範囲で事実そのものを見つめ,自分自身の相対的な立ち位置のようなものを明確に自覚しないで,理論優先ばかりを口にするような愚も避けるべきだし,実務優先のようなことばかり述べる愚も絶対に避けるべきだと再確認し,更に厳しく自戒したいと思った。一般に,法解釈論上の理論はあくまでも人工的に構造化された論理の体系またはその一部に過ぎず,所詮は誰かが考えた思考過程の一部を符号化したものという限界を超えることはできないもので,理論それ自体としては事実そのものと均等ではないこと,また,他方において,法律分野における実務と言っても現在の慣行的な実務しか存在せず,明日の実務がどうなっているかは誰にもわからないという極端な限界があるという意味で,それ自体として常に正しい論理を含んでいる保証など全くないことを明確に自覚すべきだと思う。そのようなはかないSpring ephemeralのようなものだという明確な自覚をもつことが,傲慢と慢心を避けるための,そして,自分の見解の狭量さを認識できなくなってしまうことや偏見のようなものを避けるための最善の道ではないかと思う。

今後も引き続き,少しでも公平にものごとを考えることができるように努力を重ねたいと思う。

「他山の石,以って錯となすべし」,「他山の石,以って玉を攻むべし」(詩経)。

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