王敏『禹王と日本人-「治水神」がつなぐ東アジア』
以前読んだ下記の書籍を改めて読んでみた。
王敏
禹王と日本人-「治水神」がつなぐ東アジア
NHK出版(2014年12月20日)
ISBN-13: 978-4140912263
本書は,現在まで続くその文化の諸相をアジアの関連文化と比較して紹介するもので一般向けの書籍としては成功しているのではないかと思う。
ただ,私自身の性格にもよるのかもしれないが,古代(特に漢帝国よりも前の時代)の中国における「禹」の概念及びその社会的機能を精密に分析した後でなければ,単純な比較をすることに疑問を感ずることがある。日本の江戸時代における漢籍の研究は世界的にみてもすさまじいレベルに達しており,そのおかげで,中国では既に滅失してしまった中国の古い書籍の写本や版本等の類の多くが日本国内に残存している。そして,江戸時代当時の漢学者の影響を受けて,(古代ではなく)その当時に成立した文化のようなものがあたかも古代から存在するかのような顔をして現在まで至っていることがあり得る。東南アジア諸国の文化にしても同じで,比較的新しい時代(特に清朝以降)における華僑等の中国人グループの大規模な地理的移動に伴って成立したものがそのまま現在まで存続していることがあり得る。
そんなことなどを考えた。
(余談)
日本の文化の基底に中国古代の精神文化が溶け込んでいることは事実であり,否定する材料は何もない。その文化は,紀元前から紀元後まで継続的または断続的に日本列島に流入されて累積的に形成されてきたもので,それ以前の単なる農耕が神事と関連付けて計画性をもったもののへと変容する重要な役割を担ったものではないかと思う。その伝播のルートは,中国大陸(特に山東半島以南)を想定するのが妥当であり,治水神との関連性が強い水耕栽培に適さない朝鮮半島経路を基本的に除外して考えるのが妥当ではないかと思う。近年の考古学の成果もそのことを裏付けている。
倭国(日本国)において鉄器が主流となる契機については,漢帝国成立後の楽浪郡系の影響や三国時代(特に魏)~南北朝時代における別の移動の結果として生じたと推定されるものを含め,「禹」を祀る人々(主として,方形周溝墓を尊重する漢人系の集団)の子孫は,その後,何らかの政治的な理由により「禹」ではなく「兎」を祀る人々として外見を装うように変質し,現在に至っているものと推定することは,可能の範囲内にあると考えられる。古代における「国神」なるもの本質について,特定の政治的イデオロギー等の先入観を全て取り払った上での徹底的な再検証が必要なのではないかと思われる。
これら,「禹」を祀る人々が支配階級として関東地方以北を除く地域(特に九州~畿内)において主要な勢力を確保していた時代は,倭國における青銅器を主要な祭器とする時代に相当するのではないかと思われる。銅器に示される紋様の中には,中国の古い書籍に示されているような思想を反映するものとして解釈すると妥当な解釈を得ることのできるものがあり,特に,饕餮(とうてつ)と推定されるものはそうである。これらは,古代の江南(かつての楚の地)から直接に到来したものではないかと考えられる。
なお,古代の世界における精神構造と政治構造・社会構造は,現代におけるものとは全く異なる。19世紀以降に西欧において成立した「国家」の観念をそのまま投影して考察するようなことは,それ自体として荒唐無稽なことである。
例えば,秦帝国成立以降におけるいわゆる中華思想の根源には,個人である皇帝が全ての財と人民を私有し支配するという精神構造が存在するように思われる。中国に限らず,君主制とは,基本的にそのようなものである。しかし,軍事攻略を無限に続けると国家財政が破綻してしまうことをどの時代のどの大国の官僚団も熟知していたので,周辺諸国との間で大義名分さえたてば休戦状態を成立させるという和睦的な外国術が発達した。古代ローマ帝国における「ゲルマン人(ゲーの人々またはケーの人々)」との間の休戦と長城のような物理施設の構築による境界線の明確化,古代中国におけるより洗練された冊封戦略のようなものは,そのようなものとして理解され直す必要があると思われる。それらを考察する場合に必要な考慮は,国力の持続可能性である。攻略・支配・管理のためには,それなりの財政力が存在しなければならないことは,春秋戦国時代以来,古代中国の様々な書籍の中でも明確に論じられてきたことである。
(余談2)
古代の中国大陸や東南アジア~フィリピン~台湾との海上交通に関しては,「古代においてそんな海上交通手段が存在したはずがない」との極めて愚かな反論が常に行われる。
非常に古い時代から大型の構造物を製造する技術が存在した可能性は肯定されるべきである。そうでなければ,メソポタミアとインダス川流域との間の大量の物品の移動を説明することができない。
また,大型建築物についても,農耕と文字文化が発展するよりもずっと前の時代からその技術が存在したということが近年の考古学の成果により明らかにされている。例えば,ギョベクリ・テペ遺跡(トルコ・アナトリア)がその例である。この地は,古代の粘土版に記された神話の中にある「神々が地上に降りて土から人をつくった」とされる地域推定地に近い。この遺跡の構造物には,有名なストーンヘンジや日本国内にも残されているストーンサークル等との共通性を感じさせる部分(要素)が多々ある。ヘロドトスが書き残しているスキタイの円墳状の大型墳墓の基本思想との関係についても同じである。
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