音楽演奏家は人工知能(AI)システムのアルゴリズムの奴隷と化すのか?
下記の記事が出ている。
AI and music: will we be slaves to the algorithm?
Guardian: 6 August, 2017
https://www.theguardian.com/technology/2017/aug/06/artificial-intelligence-and-will-we-be-slaves-to-the-algorithm
現在でも既に,人間が作曲したものだと信じて演奏しているけれども真実は当該作曲家なる者がコンピュータで自動的に生成された「作品」をチョイスしているだけのものを演奏している演奏家が多数存在しているのではないかと思う。
そのような場合,その「作曲家」なる者の創作性をどこに見出すべきかについては議論があり得る。写真家が生成したわけではない被写体(特に自然の風景,他人の容姿等)について,写真家が構図を決める場合の「創作性」の議論と類似する論点なのだが,私は,基本的に,このような場合について創作性を認めていない。このような場合,著作権法上の創作性とは全く別の観点から何らかの知的財産権法制を構築すべきものであり,著作権だけにこだわり続けるのは,「バカの壁」(養老孟司)の一種,または,単なる利権構造の一種ではないかと思う。強いて言えば,著作権法との関係では,自分が生成したものではない対象を加工・編集して何か別のものを作成する場合のフェアユースの適用の問題はあり得るが,その場合でも,本質的に「何か異なるものだ」という前提で,著作権法の問題とは別に考察したほうが生産性が高いことは確実で,その意味で,著作権法の分野における現時点での行き詰まりを打開するには,このようなタイプの問題について,著作権法によるコントロールを断念すること,更には,このようなタイプの問題について,知的財産権または情報財というアプローチを断念すること以外に方法がないと確信している。総体として,現在のこの分野における法体系は,ほぼ全面的な機能不全の崖の縁に立たされている。
それはさておき,非常に近い近未来において,ありとあらゆる音の組み合わせが自動計算され予めデータベースに登録されてしまうことはあり得る。人々は,それを検索して利用することは可能かもしれないが,それを発見したわけでも創作したわけでもない,そのような時代が到来し得る。これは,「既に全て用意されてしまっており,人間が用意すべきものもアルゴリズムが用意すべきものも既に何もない」という状況が出現することを意味するので,その限りにおいて,「アルゴリズムの奴隷」というわけではない。
また,人間よりもよりアトラクティブに演奏するロボット(機械装置,人工合成有機体,または,電子的な存在等)が登場することは,ほぼ確実と思われる。その限りで,音楽演奏家が就業する場が消滅するという意味で,「アルゴリズムの奴隷」になることもないと考えられる。奴隷になりたくても奴隷にさえしてもらえない時代が到来するかもしれないのだ。
しかしながら,音楽の愛好家は「純粋に音楽を求めるだけではない」という場合があることにも留意すべきだろう。つまり,音楽それ自体を愛するというよりも,音楽によって人々に自分をアピールする当該個人に興味をもつ人々が多数存在する。タレント性とは,そのようなものを意味する。この場合には,何らかのセックスアピールやカリスマ性あるいは神秘性のようなものが重視されるが,基本的には,何らかの意味での遺伝子による性的興奮のメカニズムが作用していることはほぼ確実と言える。
かくして,人間に残された職業は,そのような要素を含むものだけにどんどん限定されることになるであろう。
基本的に,教育や訓練または反復練習によって獲得可能な知識や技能は,人間よりも自律型ロボットのほうがずっと効果的かつ効率的かつ即時に習得してしまうので,人間がやるべきことではなくなってしまうことだろうと思う。
これからの世界は,「失業者しか存在しない世界」になるかもしれない。その場合,常に指摘していることではあるが,購買力が消滅してしまうので,企業が製品やサービスを製造しても,市場が全く存在しないという状況が出現する。
それゆえ,今後の経済学は,「市場というものが一切存在しない環境」及び「価値の交換が存在し得ない状況」を前提に構築されなければならないことともなる。要するに,マルクス主義の経済学を含め,アダムスミスの意味での「価値」を基本原理として前提とするものである限り,これまで存在してきた経済学上の学説は,全て壊滅する。企業の経営や投資も全く成立しなくなる。
全く別の視点でものごとを考えなければならなくなるのだ。
(余談)
若い世代の研究者はどうにか生き残りたいだろうから,私見をちょっとだけ述べる。
既存の理論を覚え,理解することは大事なことだ。最低限,それができなければ全くお話しにならない。
その前提で,既存の理論で説明しようとする前に,事実を直視することが大事だと思う。
経済学の領域では,ある学説で説明するだけで自己満足していても意味がないので,学説は学説としてひとまずおき,経済現象といわれている人間の営みを直視することが大事だろうと思う。その営みが既存の理論で説明可能であればそれでよい。しかし,少しでも疑問があるときは,既存の理論の有効性の範囲外の事象がそこに存在しているかもしれないので,自分で理屈を構築するしかない。
統計的手法を用いる場合でも全く同じで,コンピュータのデータやパラメータをいじくって楽しんでいるだけなら幼稚園児でもできる。
このことは,実際に存在する生物をひたすら直接に観察し続けるファーブルやダーウィンのような研究者になるべきだということを意味している。
彼らは,既存の理論(特に聖書の教え)をひとまずおき,目の前にある事象は何なのかということそれ自体に興味をもち,好奇心を燃やし続けた。だからこそ,それまで誰も気づかなかったような様々な法則が存在し得ることに気づくことができたのだ。
法学でも同じで,理論や学説を覚え,理解することは大事なことだ。それなしには,全くお話しにならない。
しかし,実在する内外の法令それ自体を精読し,また,現実に存在する事件の事実関係を徹底的に調べることなしには,砂上楼閣の上で夢をみながら転寝をしているのと何も変わらない。
現実に生起する事象それ自体を徹底的に調査し,蓄積し続けることなしには,法則を正しく見極めることなどできるはずがない。
単なる教条主義は禁忌としなければならない。
本来,「学問の自由」とは,そういうことを意味する。
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