蒲生氏郷
ときどき読みに行くしばやんの日々のサイトに下記の記事が出ていた。
蒲生氏郷が毒殺されたという説を考える
しばやんの日々:2017.06.02
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-510.html
私は,暗殺説を支持したい。
いろいろと評価の分かれる人物ではあるが,文武両道の傑物であったことは疑いようがない。
(余談)
秀吉は,無類の女好きだったのだろうと思うのだが,それはそれとして,結局,自分の遺伝子を残すことができなかった。
そういう観点からすれば,長い歴史の中では,捨て駒となるべきことを神が定めたと評価するしかない。
いろいろと文献を読み,考えてきたのだけれども,やはり,家康はたいした人物だと思う。
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コメント
しばやんさん
かつて,大学教授が大学院生等に論文の指導をする場合,「***である」と断定的な表現を用いないと,「それじゃダメだ」と指導することが多かったように思います。不確定性理論や現象学の基本理論を知らない学者では特にそうだったように思います。あるいは,自惚れの強すぎる学者ではそうだろうと思います。現在でもそのような学者は存在することでしょう。
そのような傾向の強い学者は,自説が間違っていることが確定的に明らかになっても撤回することが非常に少なく,また,反対説に対して非合理的な批判や弾圧を加えてきたことを謝罪することもありません。要するに,単なる「だだっこ」に過ぎないのだろうと思います。
裁判官として事実認定をする場合でもそうなのですが,法律上の決まりごととして,ある事実が存在するものとして事実認定をしなければならないこともあります(民事訴訟における自白がある場合など)。また,「それ以外の事実はない」という確信に至ることもあります。しかし,大概の場合には,ある前提が正しいと仮定した上での仮説の積み重ねの上で事実を推定します。これが事実認定です。ですので,「断定」の場合というのは意外と少ないんですよ。裁判官は,神ではないし,タイムマシンも存在しないので,推定や仮説という程度で我慢しなければ,逆に権力の濫用のような結果となってしまうことでしょう。
いろいろと読むのですが,「仮説が多い」的な批評の類は,正しい指摘の場合もありますが,ときとして,相当頭の悪い人による批評ではないかと想像することもあります。幾つかの条件分岐が複雑にからまっている論述の場合,流れ図のようなものを書きながら論理を整理すると,それなりにしっかりした論文であるのに,そのように読み解くことができないような場合がその典型です。このような場合,統合された課題それ自体とその課題を解決するために必要となる部分問題の解決における論述とを丁寧に分けて解析し,論理的な整合性を明確に認識した上で読み解くという能力が求められます。
そういうわけなので,仮説であることは,むしろ王道というべきもので,ただ,その仮説の実証性を高めるために綿密な調査を尽くし,かつ,継続し,間違いがあれば修正または撤回するということを繰り返すことが大事なのだろうと思います。
そのような謙虚な姿勢さえあれば,傲慢に陥る危険性も少なくなるのではないかと思います。
そう考えながら,私は仮説を構築し続けてきました。そのようにして私がたてた仮説の中には,その後の時の流れの中で,真理であると証明されたものが少なくありません。無論,間違いもありました。そのようなものは,自分の論文の中で撤回を明らかにしています。今後も,仮説をたてることこそが学問の本質であり,それが仮説から真理に転化するためには,その仮説をたてた時点ではそれを理解することのできる人が僅少または皆無であることから,その後の歴史の経過の中で実証されることが必要だという基本的な理解を大事にしたいと思います。
投稿: 夏井高人 | 2017年6月 9日 (金曜日) 06時30分
夏井さん、お返事ありがとうございます。
若かりし頃は、教科書に書かれているような内容はほぼ正しいものと考えていたのですが、歳をとるにつれ、特に歴史分野については疑うことが多くなりました。
「法学上の見解(学説等)でも何でも同じ」とのご指摘にはいささか驚きましたが、たしかに学者の世界というものは、オリジナルな研究を控えて大御所の見解に逆らわないでいる方が、無難に過ごす事ができるのかもしれませんね。
日本史に関して言えば、日本史学者よりも、専門を異にする学者や、趣味で研究しておられる方のほうが、はるかに説得力のある仮説を展開しておられるように思います。
夏井さんのようなレベルの高い読者に満足していただけるものがこれからも書けるかどうかわかりませんが、読者の方々からさまざまな刺戟をいただきながら、これからも勉強していきますので、よろしくお願い致します。
投稿: しばやん | 2017年6月 8日 (木曜日) 20時01分
しばやんさん
コメントありがとうございます。
歴史上の人物に関する評価に限らず,例えば,法学上の見解(学説等)でも何でも同じなのですが,どうしてそのような見解が正しいと言えるのかについて根拠としている文献を丹念にトレースバックしてみると、単一の書籍にたどり着き、それ以降のものは単なるパクリの一種に過ぎないということが圧倒的に多いです。これは,日本に限ったことではなく,世界中どこでも同じです。それゆえ,何百・何千という書籍を読めば読むほど,それらがパクリの集合体なのであって,完全にオリジナルであると認めることのできる部分は僅少であることに気づくことができ,かつ,読書の速度が驚異的に速くなります。
将来,人工知能データベースが完備されるようになると,このような内容的なマッチングを自動的に行い、系統樹のようなものを自動的に生成することが可能となることでしょう。そうなれば,真にオリジナルを生み出すことができる者はかなり限定的だということを明確にすることができます。
その次の段階が問題です。
最初のオリジナルの見解なるものの根拠が,単に「そう思った」というだけである場合,その程度のものであるということを明確に認識し,金科玉条としたり,崇拝したりしないようにすべきだと思うのです。「思った」ということだけが根拠であるとすれば,例えば,私が別の結論が正しいと「思った」としても同価値です。少なくとも,人間の平等というものを前提とすればそうです。
かくして,実は崇拝すべき根拠が何もないのに特定の個人を崇拝するような事態を少しでも削減させることのできる時代が到来することになるでしょう。
私が思うには,通説等の多くは,上記のような意味でのパクリまたは受け売りに過ぎないことが多く,かつ,そのような通説の根拠を丹念にトレースバックして検証し続けようとする学者は稀です。
ですので,そのような意味での通説なるものは少しも尊敬に値しない。
しばやんさんも私も「思った」ということだけを根拠にしてものを述べる権利はあると思います(笑)
しかし,それだけだと,単なる凡人ですよね。
実証的な検討の積み重ねが大事であり,どうやっても確定できない事実については正直に「確定できない」と述べ,幾つかの仮説として提示するのが正しい姿勢だと思います。
そのような意味で,今後も「しばやんの日々」の記事には期待しています。
投稿: 夏井高人 | 2017年6月 8日 (木曜日) 08時12分
夏井さん、拙ブログの記事を紹介いただきありがとうございます。
藤の咲く季節に日野町を散策して、蒲生氏郷という武将に興味を覚えて書いた記事ですが、なぜ病死説が通説になっているのかに疑問を感じたので旅行のレポートのあとに書いてしまいました。同意いただいて嬉しいです。
投稿: しばやん | 2017年6月 8日 (木曜日) 07時50分