妙伝寺 如意輪観音菩薩
下記の記事が出ている。
妙伝寺 本尊は国宝級渡来仏…7世紀に朝鮮半島で製作か
毎日新聞:2017年1月13日
http://mainichi.jp/articles/20170114/k00/00m/040/068000c
仏の姿をした百濟の王の像の1つの様式を示すもので,そのレプリカ的なものが伝来したか,または,渡来した仏の残存装飾品等を用いて国内で修復(再現製造)されたのではないかと思う。
頭部の冠を見ていると,これも「双羽冠」の一種で,王のための最も格式の高いものなのではないかと考えたりする。
頭部の髪が高く結われているのは,王が武人として行動するときは,山高帽または烏帽子のような形状の冑またはフェルト帽を被るためにそのようになっていたと考えるのが妥当で,日本の武人の髪型も基本的にはそのような伝統に従っていると考えられる(騎馬軍を主体とする人々の中には女性も同様に髪を高く結い,長形の烏帽子様の冠を被るものが決して少なくない。このような様式は,魏晋南北朝~唐の初期のころに特にみられるので,北方(アルタイ周辺)または西方(バクトリア周辺)の人々の習俗が移動してきたものと推定するのが妥当ではないかと思う。)。日本の武士が月代を剃るという文化は,おそらく後代になってから渡来した契丹の文化に由来するものである可能性が高いが,契丹の文化それ自体は遅くとも唐の時代には既に現在の中国東北部周辺のあたりの文化として存在していたもので,それは,ユーラシアの古い歴史と文化に更につながっていると考えられる。北路を経て移動してきた文化の残存物に違いない。
ついでにちょっと調べていたら,東寺に武内宿禰像なるものが現存しているらしいということを知った。
杓を手にする像だとされているが,どうも違うのではないかと思う。むしろ,片方の手で聖杯をもつユーラシアの石人の基本モチーフと似ているように思う(ただし,現在の姿は,左右の手の上下関係が逆になってしまっている可能性がある。長い杓を他方の手で支える姿ではなく,聖杯を持つ手が上のほうにくる姿が正しいのではなかろうか。修復の際に間違って逆になってしまったというような例は,過去にいくらでもある。)。
つまり,文化的にはユーラシアの王統がもっていた様式が変形されて今日に至っているのではないかと想像される。この武内宿禰像の表情は,何ともなしに阿修羅像と通ずるところがあり(服飾的にも共通点がある。),写実主義的な作風によるものだと言える。民族的に同一かは全く別として,文化的にはヘレニズムの流れを汲むものだろう。
他方で,一般に,聖杯を手にするユーラシアの石人は,基本的に男性だと考えられている。
これに対し,瓶を手に下げる観世音菩薩像というものがある。飛鳥の観世音菩薩像がその例で,その瓶と同形のものの実物が群馬県の観音山古墳から発掘されているので,西暦500~600年頃の日本列島の支配層は,そのような人々だったのだろうと推定できる。
石人が聖杯を手にしながら瓶を持たず,観音像が瓶を下げつつ杯を手にしていないことには,かなり大きな意味があると考えられる。
聖杯を手にする像と瓶を下げる像とは観念的には対になっているもので,それぞれの像をシンボルとして奉ずる人々の王の政治的ポジションを示すものではないかと思う。
ただし,東寺の武内宿禰像は起立しておらず,正座している。これは,何らかの政治的変化という歴史的な事変を反映するものと考えることもできる。
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