情報の洪水に押し流される・・・?
ひと昔前には,情報社会が到来した結果,情報の洪水の中で,正しい情報と正しくない情報を見分けることが難しくなるとの指摘がしばしばなされた。
確かに,そのような側面があることは事実だと思う。
しかし,洪水は来ない。
なぜなら,人間における情報処理能力に限界があるからだ。
データが大量にあっても,単位時間内にアクセス可能なデータの分量には自ずと限界というものがある。
つまり,洪水説は,人間の情報処理能力を「無限」と仮定していたことになると考えられる。
現時点では,むしろ,そのような膨大なデータが存在する中で,人間がどのような類型に属するデータを嗜好するかという観点からの考察が必要なのではないかと思う。
ここでは,古くからある「イドラ」という考え方が有用性を維持することになるだろう。
今後,仮想現実技術が普及することになると,それに捕らわれる人々が大量に発生することになる。ここでもまた,古い「イドラ」という考え方を用いた考察が有用性を発揮する。「イドラ」と同じような考え方は,古い仏典の中にも書かれている。しかし,仏典を全て読みこなすためにはそれ相応の時間がかかるので,近代西洋哲学で用いられた理屈を応用するのが簡便というものだろう。
結局,哲学の領域では,進歩というものが何もない。ただし,進歩することそれ自体を自己目的とすることは愚かなことだと考えるので,進歩がないことがダメなことだとは全く思わない。人類は,はるか昔において,既に真理に到達している。真理であるので,それを乗り越えることはできない。
現在の環境において,こざかしい知識遊戯に狂喜し,コンピュータから自動的に出力される計算結果に過ぎないものを自分が考えて書いた学術論文だと称して公表する者をあちこちで見かけることはあっても,真に有用性のある古い方法を生の事実に対して応用しようとする者またはそれを応用することができる者が乏しいということを嘆く。おそらく,キャパシティの問題が存在しているのだろう。
しかし,本当は,古い道具だけでたいていの場合に対処することができる。
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