平城京出土の木簡にペルシア人であることを示す名前
下記の記事が出ている。
平城京にペルシャ人の役人がいたことが判明。「破斯清通」ってどんな人?
Huffington Post: 2016年10月5日
http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/05/nara-heijyou-kyu-persia_n_12349792.html
「破斯」は、「はし」または「はっし」と読むべきものだろう。古代のイランの一地方を指すものだ。このような「よみ」を含む氏の中にはその流れを汲むものがあると想像される。
奈良時代の文化をつくった工人の中に多数のペルシア人(またはバクトリア人)が含まれていた(または,ほとんど全てがそうであった)ということは,先人の業績により既に明らかになっている。
今回の木簡は,1966年に出土していたもので,今になってやっと正しく読解されたということになる。
他にもあると考えている。ただ,これまでは太古から「倭人」という単一民族だけが日本列島を支配しており,日本語という単一の言語が存在していたという前提で歴史学の主流が形成されていたので,公平な目で出土資料を検討し,その結果を公表することが許されなかったのだと思う。象牙の塔は,本当に存在する。
私見としては,古代史におけるスキタイ~匈奴~契丹の流れとその影響に着目すべきだと考えている。
ある時代にそのようなスキタイ系の人々の中の一群の人々が倭國に襲来し,在来の支配階級にとってかわったというのが騎馬民族征服説の骨子だ。「騎馬民族征服説は既に否定された誤った考え方だ」とする見解がまだ多いが,嘲笑するしかない。勉強が足りなすぎるのだろうと思う。
同様に匈奴や契丹を蒙古族の一種だと考えるのは,そろそろ終わりにしなければならない。蒙古族ではない。スキタイの後裔と考えるのが最も妥当だろう。スキタイは,本来は,コーカサス~バクトリアを中心的な支配地をしていた人々だ。その支配階級の墓から出土する遺品の中には日本の古墳から出土するものと共通した要素を有するものがあまりにも多すぎる。
以上については,艸史雑誌第1号所収の論説で書いたし,そこで引用している,「やまくさ」や「らん・ゆり」掲載の論説の中でもっと詳しく論じたとおりだ。
[追記:2016年10月7日]
「須恵器」と「素焼」が同じ語から由来するものであることは,ほぼ疑いない。
「土師器」は,長年の謎で,ずっと研究してきたが,まだよくわからない。しかし,意外と,「破斯の器」というあたりに語源があるのではないかと思う。
| 固定リンク
« セミナー「国境を越える個人情報保護への動き~越境移転を促進する仕組みとしてのAPEC/CBPRシステム~」 | トップページ | WIPO:Economic Research Working Paper No.30: Breakthrough technologies – Robotics, innovation and intellectual property »
コメント