奉職している明治大学法学部で1~2年生配当科目である「プロゼミ」という科目を担当している。
例年,数名の受講者しかいなかった。今年は,どういうわけかかなりの数の受講者があるので,本来のゼミ(seminar)としてはちょっとやりにくいのだが,工夫しながら演習形式の授業の練習という意味での初学者教育のために頑張っている。
どこの大学においても同じではないかと想像するのだが,いろいろと事情があり,授業科目の見直しに迫られている。
この「プロゼミ」という科目についても見直しが予定されているので,来年以降,どうなっているかはわからない。
明治大学法学部の「プロゼミ」は,比較的古い科目だ。本来は,駿河台の法律専門科目の演習科目の受講希望者向けに準備段階の演習的科目として企画されたもので,主として法律科目の先生方が担当していたのだそうだ。しかし,現在では,かつてとはかなり異なった運用になってしまっている。本来あるべき「プロゼミ」として科目を担当しているのは,現時点では,私だけかもしれない。
ところで,「プロゼミ」との名称は,明らかに英語ではない。
「プロ(pro)」は,ラテン語に由来するものであろう。「プロパテント」というような場合には,「プロ」は「促進する」というような意味をもつ。しかし,「プロゼミ」の場合の「プロ」は,「~の前に」という意味で,ラテン語の「prae」と同じような意味で用いられているものと解される。
「ゼミ」が「seminar」の短縮形であることは明らかなのだが,その読みから,英語ではなく,ドイツ語の「ゼミナール」に由来するものだと考えられる。
つまり,「プロゼミ」は,ラテン語+ドイツ語の合成語的な日本語であり,英語ではない。
この名称について,英語的に「プレゼミ」とすべしとする意見がある。もし英語的な名称にするのであれば,「プレセミ」が正しいと言えるだろう。
しかし,「プレセミ」では,「空蝉(うつせみ)」のような語感から,何となく迫力がない(笑)。
また,ラテン語の「pro」がもつ多様な意味合を反映することができないという問題がある。
まあ,どうでもよいことの1つであることは間違いないので,私としては,そういうことにはあまりこだわらず,流れるままに身を任せることにしている。
そもそも大学という教育システム全体が今後どのようになるのかよくわからない状況にある。大学教育を1日たりともやってみたことのない人々や妙な評論家程度の人々や知識遊戯だけで自己満足しているような人々がもてはやされ政策決定に影響を与える時代なので,行き着くところまで行き着かないと,誰も大学という教育システムについて真剣に考えることはないということかもしれない。
私見としては,制度をいくらいじってもダメだと考えている。
必要なのは,十分な熱意と体力と知識・教養と技能をもつ教員が存在することだ。
そのような優れた教員さえいれば,現在のような大学が崩壊してしまったとしても,昔のように,キリスト教会の軒下を借りてプラトンを講じたり,仏寺の本堂を借りて論語・孟子を講じたりすることはできる。
しかし,その逆は絶対にあり得ない。
それゆえ,優れた教員がその能力を存分に発揮できるような環境を整えることこそが大事だ。
ただし,その能力は,現在普通に用いられている指標のようなもので測定できるものではないということだけは留意すべきだろう。
高等教育の分野に関する限り,現在普通に用いられている指標の類は,基本的に,まるで無意味なものばかりだと考えている。
高等教育の分野に関する限り,どの時代においても「教育する人」は成立し得るが,学問体系としての「教育学」なるものは成立の余地が全くないというのが私見だ。
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