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2016年9月13日 (火曜日)

死刑制度

下記の記事が出ている。

 日弁連:死刑廃止宣言へ 10月の大会、被害者から反対も
 毎日新聞:2016年9月12日
 http://mainichi.jp/articles/20160913/k00/00m/040/119000c

新聞は,報道の仕方を考え直したほうが良いと思う。

「日弁連」となっているが,多くの弁護士の意思を反映した活動ではない。ごく少数のある思想傾向をもった人々のグループが日弁連として行動しているのに過ぎない。

死刑廃止論それ自体の論理については,時間をかけて検討した上で幾つかのもので書き始めた。結論としては,論理それ自体として成立しない。

日弁連からは,死刑制度の存置に関するアンケート(記名式)が来た。踏み絵のようなものだと思ったが,正直に,存置の態度を明確にした。そのアンケートの中には「今後賛成の立場で活動するか?」という趣旨の項目があり,「わからない」という欄にチェックをして返答をした。しかし,あまりにも現実と事実を無視して,ある思想傾向をもった人々のグループが「日弁連」を名乗って活動をすることを見逃すわけにはいかないので,このブログで旗幟鮮明にしたいと思う。

そのアンケートの集計結果が公開されているかどうかは知らないし,そもそも,EUの基本権憲章や国連の人権保障文書に定める基本的人権の保護の枠組みと全く矛盾するようなやり方によるアンケートなので,そのようなアンケートを実施する人々には基本権憲章や国連の人権保障文書を法的根拠として「死刑反対」や「人権」を口にする法律家としての資格が全くない。

一般論だが,このようなタイプのアンケートでは,集計結果の捏造が行われるのが普通なので,私は,ほとんど信用していない。

[追記:2016年9月19日]

死刑廃止論者の多くは,死刑制度のもつ人権保障的機能を理解していない。一見素晴らしいように思われる論理の罠にはまっているのだろうと思う。

死刑制度が廃止された場合,裁判所は,国家が誰かを殺すということについて,何も関与しなくなる。テロ攻撃であると政府が判断すれば,(死刑ではないので,裁判所の判断を経ることなく)その者を攻撃し,殺傷することを容易にするというパラドックス的な論理の罠がそこに存在している。死刑制度が存在しなくなると,「裁判所の判断を経ていない」または「公正な法廷における弁解の機会が与えられていない」ということを根拠とする批判は,一切成立しなくなる。

[追記:2016年10月7日]

死刑制度を廃止した国や停止した国では様々な人権団体等がより安全に活動をすることができるようになったというのだろうか?

死刑制度を廃止した国や停止した国では凶悪事件が減ったというのだろうか?

死刑制度を廃止した国や停止した国では治安が改善されたというのだろうか?

死刑制度を廃止した国や停止した国では国家権力により殺される人の数が減ったというのだろうか?

死刑制度を廃止した国や停止した国では戦争がなくなったというのだろうか?

そして,何百人もの人々を平気で殺す殺人狂でも,服役させることによってその「人間を変える」ことが(理論的には)可能かもしれない。しかし,それが比例制原則に合致するものといえるものとは言えないし,正義に適ったものとも言えない。一方における多数の生命の犠牲と,他方における人間性の改善教育効果への期待とそのための巨額の国税の支出との間で適正なバランスがとれていると考えることを強いる権利など誰にもない。そのような者は,相応の報いを受けるべきだと考える。少なくとも復讐(仇討ち)の権利を復活させるのでなければ,公正な社会秩序を維持することなどできない。

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