種はあとからでもまくことができる
いろんなものを書くために,かなり大量に論説やら何やらを読んでいる。
読む速度だけは誰にも負けないのではないかと自負している。ただし,理解が伴っているかどうかは別問題だ(笑)
それはさておき,様々な論説等を読んでいると,「この人はきっと明晰な頭脳をもっているのだろうな」と感じることが決して少なくない。どうやら私よりもずっと頭がよさそうだ。にもかかわらず,少しも感心しない論説が珍しくないというのも偽らざる事実だ。
その原因についてずっと考えてきた。
現時点で得た結論としては,根がない,または,根がしっかりしていないからではないかと思う。
植物工場で理想的に無菌栽培をすると,見かけは非常に立派で消費者が大喜びするような均質な野菜を育てることができる。商品価値は高い。しかし,弱い。
それは,しっかりとした土壌で育ったものではないからだ。
土壌をつくることは容易なことではない。時間と手間がかかる。
しかし,まず土壌をこしらえることに全精力を注ぐことが大事だと思う。
よく肥えてしっかりと耕された土壌であれば、並の種を播いても立派に育てることができる。しかし,痩せていて耕されていない土壌であれば,最上級の種子を播種してもいずれ枯れてしまう。
では,人間にとっての土壌とは何か。
それは,豊富な一般教養に尽きると思う。とりわけ,人文系の一般教養がそうだ。
世間では,そういうものを軽視する傾向が全くないとは言えない。思うに,教養の全くない人々がそのように考えるのだろう。
教養のない者は,人の上にたってはいけない。
私自身はどうかというと,非常に教養の乏しい人間でお恥ずかしい限りなので,決して人の上にたつことはないようにしようと覚悟を決めている。
仮にこれほど無残に無教養の人間が人の上にたってしまったとしたら,世間に迷惑をかけるような結果しかもたらさないだろうと思うのだ。
だから,日々,古典と呼ばれる古くから読み継がれてきた書籍を(可能な限り原書またはそのレプリカ等を入手して)貪り読み,それによって,ちょっとでも教養のかけらに触れるべく,つたない努力を続けている。
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