中村修也『天智朝と東アジア-唐の支配から律令国家へ』
こういう本が出ているということを本年の正月頃に知り,注文していたところ,昨日届いた。早速読んでみた。
中村修也
天智朝と東アジア-唐の支配から律令国家へ
NHKブックス(2015/10/25)
ISBN-13: 978-4140912355
いわゆる朝鮮式山城,水城,大野城等の政治学的位置づけについては,私見もほぼ同じだ。通説は基本的に間違っていると思う。
私見によれば,「大野城」の「大野」は唐の皇帝「李」の鮮卑復姓「大野」のことを示し,要するに,「唐の皇帝の軍隊のための城」という意味の名前だろうと思う。ずっと古い時代の鬼城(吉備)についても,通説のような考え方では説明に苦しい。
しかし,当時の歴史の考察については,本書における詰めが少々甘いのではないかと思った。推論としては成立可能な部分でも論拠の示し方が弱い。
特に,新羅に関してはもっと冷酷な見方をしたほうが良い。現実に起きたできごとは本書に書かれていることよりもずっと悲惨なことだったのだろうと思う。
『旧唐書』巻二百十一には「麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟 耽羅 倭 四國酋長赴會」と書かれている。後半の「仁軌領新羅及百濟 耽羅 倭 四國酋長赴會」は「泰山」を封じたという文とは別の文で,独立して読むべきだと考える。
「仁軌」とは「劉仁軌」を意味する。
「仁軌領新羅及百濟 耽羅 倭」、「四國酋長赴會」が史実であるとした場合,どのような国際政治的情勢を想定すればよいかという考え方の相違により,歴史を見る目の冷酷さの度合いが異なることになる。『日本書紀』の天智天皇八年には「沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐」とあるが,これが「四國酋長」に該当するとの解釈は全く不可能ではない。つまり,白村江の戦前の「新羅」とその後の統一新羅とは異なる政治体制をもつ国家であると推定することはできる。この時期前後における新羅王の消息に関する朝鮮側史料を丁寧に読んでみると,何となくそのような気がする。
ちなみに,『旧唐書』巻五の總章三年春正月庚寅には「以右相劉仁軌為遼東道副大總管」とあり、同年二月戊午には「遼東道破薛賀水五萬人,陣斬首五千餘級,獲生口三萬餘人,器械牛馬不可勝計」とある。
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