鶴岡真弓『ケルト美術』
下記の書籍を読んだ。
鶴岡真弓
ケルト美術
筑摩書房 (2001/12/10)
ISBN-13: 978-4480086778
ケルト美術を「造形」という観点から考察したもので,ケルトの歴史からはじめて末期までの美術通史のような感じになっている。
「まえがき」の部分には著者の美術哲学のようなものの片鱗を窺うことのできる記述があり,興味深かった。
本書の約半分は写真と図版になっており,本文中で図や写真を参照するような構成となっている。
内容的には,欧州だけに限定せずに,周辺・近隣諸国の文化との比較文化的な考察を十分に盛り込んだものとなっている。
ただ,私の興味関心からすると,バクトリアよりも東の世界との比較が乏しいように思う。
私見としては,古代中国の青銅器と古代ケルトの青銅器との間には濃厚に類似性がある。要素解析の手法を用いると,それが明確となる。おそらく,単に文化が伝播したというよりもずっと濃密な相互関係があったのではないかと思う。
そのような観点からすると,純粋に「造形」という切り口だけで考察するにしても,もっと広い視野で深い考察をすべき余地が残されており,この分野はまだまだ学術研究の宝庫となっているのではないかと思う。
なお,本書を通読してみて,ラテーヌ期以降については幾何学文様としての抽象化という動きを重視する考え方が示されているように思う。私もそうではないかと考えるのだが,少しだけ留保したい。
なぜなら,例えば,日本の神社の三つ巴紋は,それ自体としてはとても精緻な幾何学文様なのだが,そこには神道における重要な意味が込められており,それを感得することが非常に重要なものとなっている。欧州では,キリスト教の影響でそういう精神文化が廃れてしまい,誰も感得できなくなってしまっているのかもしれないが(中国でも孔子の教えの影響で廃れてしまった可能性があるが,山海經や神仙伝等に示される神仙の考え方にその残滓をみることができると考える。),日本にはそのような精神文化が残されている。
素人の仮説に過ぎないが,古代ケルトの青銅器等に示される紋様や動物の頭部等の形象は,いわば象形文字的に何らかの意味を示唆するもので,単なる「造形」にとどまらない極めて重要な社会的役割を果たしていたものだと考える。その解明は,現在でも神紋や家紋や使い,それに意味を認める精神文化をもつ日本人のみがなし得ることではないかと思う。
他方で,ケルトの幾何学文様とされるものは別の流れのように見えるかもしれないが,宗教上において重要なものとして現存しているとも考えられる。例えば,イスラム教スンニ派のアラベスク文様がそれに該当する。イスラム教のスンニ派では神等を人間の形で表現することを禁止しているのだが,このような考え方はアイルランド・ケルト系のキリスト教会にも通ずるものではないかと思う。シーア派ではムハンマドを除き人物像を描くことを必ずしも禁止していない。こちらのほうはヘレニズムの流れを汲むものとして理解することもできるのではなかろうか。
(余談)
ケルトの信仰に関する論述部分では女神について比較的詳しく書かれており,興味深かった。馬に横乗りになっている構図で示されるエポナ神は,ユーラシア大陸に広くみられるもので,この女神の信仰をもつ人々がかなり広範囲に居住し,または,かなり広範囲を移動したことを示している。
水の女神とされるダユ神は,おそらく,アンデルセンの人魚姫の原型となっているもので,中国の人頭蛇身の女神とも関連性を有するものだろうと思う。中国の媽祖(まそ)に関する様々な伝承の中にも紛れ込んでいると考えられる。
「マリア」は,古くから指摘されてきた問題で,私もキリスト教とは無関係のものだった地母神信仰のようなものが,キリスト教布教のための都合上,キリスト教の中に組み込まれたものだろうと思う。
別の記事にも書いたのだけれども,2本の角をつけた羊の頭部は,子宮のように見える。また,2本の角は,しばしば銅鏡を支えるための台として用いられる。このことから,子宮に太陽が入るという暗示をしている可能性があるのではないかと考える。寝ている間に子宮に白い像が入り仏陀を懐胎した,あるいは,流星が子宮に入り貴人を懐胎したといったような表現は,インドでも中国でも古くからある。それを銅の装飾品として具現化すると羊の頭部になるということかもしれない。
[追記:2016年1月25日]
同じ著者の『ケルトの芸術と文明』(創元社,2008)も読んでみた。カラー写真が多く図版としてはこちらのほうがわかりやすい。しかし,本文は『ケルト美術』をダイジェストにしたようなもので,論証部分がかなりカットされているので,本文の内容としては『ケルト美術』のほうが優れている。
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