下記の書籍を読んだ。
大林太良編
死と性と月と豊穣
評論社 (1975/11/10)
類書を複数読み進めているので,題材(素材)として用いられている神話・伝承の類はほぼ暗記状態になっており,そういう部分はスキップして読むことができるようになった。考察部分を中心にして精読したのだが,他の類書とほぼ同一内容の部分が多く,これらもほぼスキップできた。結果的に,速読と同じくらいの時間で完全に読了することができた。じっくり読んだのは,本書の冒頭にある座談会の記録部分だけかもしれない。大林太良『日本神話の起源』を読んでから本書を読むと,かなりの速度で読了することができるだろうと思う。
本書では,性というものが自然的・物理的なものではなく,社会的に構成され観念されるものだとの考え方を基本として考察がなされている。その考察の中で,H. バウマンの『二重の性』等の先行研究を引用して,「半陰陽」の問題が述べられている。また,『旧約聖書』にもあるように,「男性から女性がつくられた」とのモチーフについて詳細かつ多角的な検討がなされている。その検討の中で,古代のメソポタミアにおいて,イシュタル神のような「女神」とされているものは,本当は「男神」だったのではないかとの見解も示されている。
私は,日本の埴輪の中で「巫女」とされているものに着目して,ここ数年間ずっと検討を重ねてきた。趣味の雑誌に書いた論説の中では,仮面をかぶったように見える「巫女」とされれる埴輪は,製造技術が拙劣なためにそのように見えるのではなく,本当に男性が仮面をかぶって女性としてふるまっていたのではないかとの仮説を提示した。
バウマンの「半陰陽」説は,一部修正されるべきだろうと思う。「半陰陽」なのではなく,男性の神官によって女性として演じられた祭祀があったと考えるほうが妥当だと思う。これは,現代まで続く能においてもそうで,能は基本的に男性だけによって演じられ,登場人物が女性である場合には女性の面をつけて演じる。これは,古代の祭祀を比較的忠実に現代に伝えるものではないかと考えている。
このような考え方は,下記の書籍を読んで更に強固なものとなりつつある。
山崎一司
花祭りの起源-死・地獄・再生の大神楽
岩田書院 (2012/6)
ISBN-13: 978-4872947540
素人の推測なのだが,『古事記』や『日本書紀』において,女帝とされる人物についても,それは能における女性の「面」のようなものであり,実際には誰か男性が「女帝」を演じていたと推測するほうが合理的ではないかと考えることのできる部分が多すぎる。
なお,本書の41頁で引用されているルロワ・グランの見解に基づく古代の象形文字比較の図を見ていて,女性を示すシンボルは羊または山羊の形象と関連し,男性を示すシンボルは杉のような樹木の形象そしてルーン文字のような体系と関連するものではないかとの印象を受けた。その原書は全く読んでいないので,もし入手することができたら読んでみたいと思う。
ますますもって勉強不足を痛感している。更に勉強を重ねなければならない。
(余談)
一般に,有性生殖をする動物は,オスとメスとして観念される。有性生殖と無性生殖の両方をする生物も多数存在する。ただし,遺伝子の観点からすると,有性生殖と無性生殖の両方をする生物では,無性生殖を何回か繰り返すと分裂できなくなって死滅してしまうことがあることが知られている。有性生殖による遺伝子交換というサバイバル手段を手に入れたかわりに無性生殖という簡便な手段の有効性を制約することになってしまったのだろう。
ところで,人類は,これまで有性生殖をしてきたのだが,性行為それ自体が欲望充足手段として独立して認識されるようになるにつれ,同性間の性行為がなされるようになったらしく,本書においてもそのことについて何度も触れられているし,古代において,男性が女性の服装をすること,または,女性が男性の服装をすることを禁止している例があるのは,実は同性愛の禁止を示すものだとの見解も示されている。
古代に行われたことだし,タイムマシンはないので,その見解の真偽を判断するだけの能力はないが,現代の世相から少し未来の将来を考えてみると,現在の再生医療を含め,細胞レベルでの人類の増殖という考え方には,ある種のリスクが伴っていることを認識することができる。自己細胞の無性生殖的な増殖を繰り返しても,その回数には限界があるのだろうとことだ。これは,いわゆるテロメアというものの本質に関するもので,テロメアの増殖についても研究が進められている。しかし,もっと本質的な部分で,「何か」があるように思う。
その探究は自然科学者に任せるしかないけれども,文系的な発想からすると,人類が有性生殖から無性生殖へと向かっていることは事実だと言えると思う。すると,社会的機能としての「性」というものも基本的に消滅するので,そのあとは目的合理的にヒトの集団を「管理する」ために制度設計がなされるようになるだろうと思う。基本的に,家族も婚姻も無駄な支出を要する古い社会制度として認識され,そういうものを排除した上での合理的な飼育・増殖だけに投資がなされるようになるに違いない。要するに,「家畜化」だ。
これを進歩というのか退行というのかは知らないが,「人類は,そのようなクリティカルな状況と直面している」という認識はもつべきではないかと考える。
いわゆる「唯物史観」なるものが仮に正しいとすれば,そのような「家畜化」への人類社会の移行は「世界同時発生的な進化の結果として起きるものだ」という説明をすることになるだろう。
しかし,私は,そのような見解を採らない。
(余談)
本書の中で,動物を狩る狩猟民が女性の血を嫌ったという伝承に関する部分の考察は,若干の再検討を要するのではないかと思った。
神秘的な要素から考察するのではなく,動物の極めて鋭敏な嗅覚というものを理解することが大事だろうと考える。
嗅覚というセンサーの反応により動物が逃げてしまい,狩猟に出た者らが1頭の獲物も得ることができなければ,結果的に,その集団全体が餓死するしかなくなることは必定と思われる。
それゆえ,「血」を「不浄」とする宗教的な観念は,人類の歴史の中でも相当後の時代になってから結論の正当性を示すための説明として付加されたのに過ぎず,本来は,経験的に習得された即物的な理解に基づくものだったのだろうと推定することができる。
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