大阪府立近つ飛鳥博物館編『埴輪群像の考古学』
以前購入して読んだ本なのだが,再度丁寧に読んでみた。
大阪府立近つ飛鳥博物館編
埴輪群像の考古学
青木書店(2008/1/25)
ISBN-13: 978-4250208027
埴輪群像が一定の(いくつかの)パターンを持ち,セットとして古墳を装飾していたというところまではほぼ異論がないと思われるが,その実像については分からない部分が多い。
私見では,被葬者の埋葬時に設置しておしまいということではなく,毎年ある時期に祖先と祖神を祀るといったような祭礼が行われていたのではないかと思う。
そこでいつも連想してしまうのが,桃の節句(上巳の節句)だ。新暦の3月3日には桃の花が開花しているはずがないので,旧暦で考えなければならない。『懐風藻』や『扶桑略記』に出てくる春の宴も新暦の3月3日ではなく新暦の4月頃に実施されたと考えないと物理的にあり得ない空想となってしまう。
では,なぜ桃の節句を連想するかというと,それは雛飾りにある。
雛飾りの由来については諸説あり一定していない。
しかし,私は,大型古墳造営のような厚葬が禁止された後,禁止前には埴輪群像として祭礼の装飾とされてきたものが小型化・ミニチュア化され室内で飾られるようになったというのが雛飾りのルーツになっているのではないかと想像するのだ。
あるいは,古墳における祭礼に際して,参列者が武人や楽人等の正装をして参列するということが当時存在しており,それが後代まで続いたが,そのミニチュア模型だけが雛壇として残り,人間が正装して祭礼を挙行するという習慣が消滅してしまったと考えることもできる。
雛飾りには,埴輪群像に見られるような武人と楽人が存在する。また,埴輪群像には食糧としての鳥や牛などが生きた姿で並べられるが,雛飾りでは加工した食品のミニチュア模型として並べられる。埴輪群像には内裏様とお姫様がないが,これは,後代になって宮中の遊びとなってから追加されたもので,本来は,古墳に埋葬されている祖先と抽象的な存在である道教の真武大帝(北極星・太秦)が最上段に位置すべきものとして存在していたのではなかろうか。また,古墳で祭礼が行われていた当時は,現在でも墓前に食事をそなえる習慣が残っていることからも理解できるように,実物の食事(加工した食品)が並べられたのではないかと思う。
古代には春に櫻を愛でる習慣がなく,中華流の梅と桃と蘭しかなかったと推定される。春の蘭は,報歳蘭か春蘭しかあり得ない。
藤袴はやっと芽が出ているかどうかというくらいなので藤袴が「蘭」であるとする通説の見解は,それが春の花を示すものである限り,100%誤謬だ。物理的に成立しない。
おそらく,古代の古墳には中国から持ち込まれた春蘭が植えられており,春になると自然と高貴な香りを漂わせ,桃の花の季節と一致している地方では供物として捧げられる枝に咲く桃の花が艶やかさを添えたものだろうと想像する(円筒形埴輪は花器のような用途があったかもしれないと考える。桃が食用として大量に栽培されていたことは考古学上の多数の発見によりほぼ証明されている。)。そして,周濠には蓮が植栽され,食糧とされるとともに花の季節には極楽浄土を示すものとされたのかもしれない。
このように雛飾りから内裏様とお姫様を取り除いてみると,雛飾りと古墳の埴輪群像との間には非常に近似した類似性があるように思われるのだ。
古いことだしタイムマシンが存在しない以上確認しようもないのだが,これまで出土した考古学上の遺物の中で用途等がよくわかっていないものについて再検討してみると,意外とヒントが隠されているかもしれないと思う。
(余談)
桃は,秦~漢の頃に渡来したものだろうと推定される。
種子を数個袋につめて舟に乗れば容易に持ち込むことができる。
問題は,ユーラシア大陸では基本的に樹木を栽培・増殖するための高度な技術と知識をもった人々がその後消滅してしまったということだ。おそらく,ジェノサイドされてしまったのだろう。日本人は,世界でも稀な草木を育てることのできる民族であり,古代において世界中で迫害された後にやっと倭國にたどりつき安住の地を得たということではなかろうか。五十猛命の植林神話がそのことを伝えていると考える。
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