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2015年12月23日 (水曜日)

我孫子昭二『東京の縄文学-地形と遺跡をめぐって』

下記の書籍を読んだ。

 我孫子昭二
 東京の縄文学-地形と遺跡をめぐって
 之潮(2015/11/13)
 ISBN-13: 978-4902695274

情報量が多く,非常に有用な書籍だと思う。お勧めできる。

普段,東京で暮らしていても,その地下に様々な遺跡が存在していることに気づくことは少ないし.大きなビルのある場所等では既に遺跡が破壊されていて存在しない。

しかし,東京の台地には過去1万年以上にわたって人々が住んでおり,大規模災害によって全滅すれば無人の荒野となった地域に新たに人々が集落をつくって生活するということを繰り返してきた。その痕跡である遺跡が多数存在する。しかし,低地は海または川だったので,基本的には遺跡が存在しない。

低地にも例外となる遺跡があるが,それが存在している原因は様々だ。縄文時代の大海進前の遺跡が水没した例は理解しやすい(一般に,氷河期には現在よりも100メートル以上水位が下がったと推定されている。)。しかし,なかなか理解し難い例もある(局所的な地盤の隆起や沈降のあったことは否定できない。ただし,現在の地質学の通説では,そのような極めて局所的な地盤の変化の存在は無視されている。へたに指摘すると,地価の低下を招き,開発の阻害要因となるので,政府から睨まれる可能性が高いと判断した結果かもしれないと考えることがある。)。

本書では,縄文時代の海水面が現在よりも3メートル程度高かったと推定し,推測される当時の陸地(河川・海)の範囲を明示する図面を用いているので,当時の立地を理解しやすい。

当時の海水面の高さについて3メートル程度としているのは,現在のデベロッパーや建設会社等の利益を考慮した相当控えめなものだろうと思う。多くの人々は,4~7メートル程度高かったと考えている。

そして,更に考えなければならないことは,堅固な堤防等が全く存在しない時代だったので,毎年何度も発生する台風や高潮などに伴って通常の水位よりも5メートル以上高いところまで波浪が押し寄せ全てを洗い流した可能性は十分にあり,更に,大津波があれば,更に10メートル程度高いところまで壊滅的な打撃を与えただろうということは容易に想像することができる。このような状態は,基本的には江戸時代まで続いていたと推定できる。

要するに,現在の海抜で20メートル程度のところまでの低地では,人々は完全な全滅を繰り返してきたということになる。全滅して無人の泥地になったところに別の人々がやってきて村や町をつくり,それがまた完全に壊滅し・・・ということを繰り返してきたのだろう。

結果として,現在まで残されている遺跡の多くは,海抜20メートル以上の台地上に集中している。

私は,考古学の世界でも正直であるべきだと思う。「低地に住んではいけない」という当たり前のことを明確に提示することもまた,学者の重要な社会的責務の一部だろうと信ずる。

この書籍に含まれている情報が極めて有用なものだけに,若干惜しまれる。

(追記)

関東地方の低湿地や河川敷等には「***の自生地」等として保護されている場所が少なくなく,しかも,そのような場所で保護されている植物は「何万年も前から自生している」等々と説明されることが珍しくない。しかし,その圧倒的多数の例において失笑を禁じえない。なぜなら,縄文時代以降の非常に長い年月にわたり河川や海の底だった土地であり,その後の(主に江戸時代以降の)干拓等によって陸地化したところでもかなりひどい水害がたびたび発生していたことが記録によって証明可能だからだ。

私見では,そうした「****の自生地」なる場所に生えている植物の多くは,コケ類や非常に小型の水生植物等を除き,基本的には人為的な植栽によるものの子孫だろうと考えており,しかも,種としても野生種というよりは人工交配による品種だろうと推定したほうが合理的な場合が多いと考える。

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