« 友廣哲也『土器変容にみる弥生・古墳移行期の実相』 | トップページ | 氣賀澤保規編『遣隋使がみた風景-東アジアからの新視点』 »

2015年12月25日 (金曜日)

「蕭繹職貢図」にある倭人図

梁代に原本が作成されたと伝えられ模写だけが残る「蕭繹職貢図」に倭人の図があり,これまで何度も見ては首をひねり,考え,そしてまた考えるということを繰り返してきた。

どうみても胡人(ソグド人?)に見えるからだ。

日本にバクトリアあたりからソグド系の人々がやってきていて拝火教やヒンヅー教を伝えたことは100%間違いないし,その子孫が現在まで続いていることもまた100%間違いないのだが,なぜ倭人図にあるのか?

現時点での仮説としては,中国の諸王朝の中でも五胡十六国の時代には胡人が支配階級となることがしばしばあり,言語の問題もあって,胡人を使者として派遣したほうがうまくいくと考えられたからではないだろうか?

最近,このような状態は,実は魏のころから始まっており,隋の時代ころまで続いていたと推定したほうが良いと考えるようになった。中国で発掘された墳墓に残されている壁画や彫刻等を可能な限り多数見ているうちにそのように思うようになってきたのだ。

「漢人」なるもののイメージを一度完全にリセットして考え直したほうがよいと思う。

(余談)

張庚「諸番職貢圖巻」にある斯羅国(新羅)の記述は正しいと考える。高句麗広開土王碑の碑文とも内容的に一致している。

|

« 友廣哲也『土器変容にみる弥生・古墳移行期の実相』 | トップページ | 氣賀澤保規編『遣隋使がみた風景-東アジアからの新視点』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 友廣哲也『土器変容にみる弥生・古墳移行期の実相』 | トップページ | 氣賀澤保規編『遣隋使がみた風景-東アジアからの新視点』 »