性差
「性差」や「ジェンダー」に関しては,いろいろと議論がある。「ダイバーシティ」の問題とまぜこぜになると更に厄介な議論が発生してしまうことにもなる。
よくわからないのだが,それぞれの立場というものがあるのだろう。
しかし,語句の混乱が存在することは事実ではないかと思う。
「ジェンダー」という名を用いながら実際にはフェミニズムをやりたい人は正々堂々とフェミニズムをやればよい。
そうではなく,本来のジェンダーの考えを徹底すると,ジェンダーを意識することそれ自体をやめるべきであるという当然の結論にたどり着く。性差というものを意識してはならないのだ。
意識してはならない以上,語句も消滅させるべきだろう。
同様に,「同一性障害」という概念も消滅させるべきことになる。
もともと存在してはならないものについては同一性に関する自己認識についての障害もあり得ない。男または女を意識するから「障害」とされてしまうので,意識しなければ全く関係がない。性差とは無関係に生きる人が存在しても全く構わないというのが私の考えだ。
いずれ,遠い将来には,人類それ自体が有機体生命体としては存続しない時代がくるだろうから,そういう時代になればますますもって意味のない概念であることになる。有機体として生殖により繁殖するという要素が存在しているから問題となるので,そのような要素が消滅してしまうとそもそも問題の発生源も消滅してしまうことになる。
そのような未来ではなく,現時点のことについて述べると,もともとどのように生きるかは個人の選択の自由なので,自由に生きればよい。
ただし,自分の自由を他人に押し付けることはできないので,自分にとって社会的に許されている範囲内で自由に生きるしかない。ただし,そもそも自由の領域は誰にとっても極めて限定的なもので,実際にはほほ皆無に近いので,そういうことを正確に測定できるかどうかの問題に帰着するものではないかと思う。
一般に,よくわかっている企業家であれば,ある人が「何ができるのか?」しか興味がないだろうと思う。何もできなければ使ってもらえないし,有用であると評価されれば使ってもらえる。ただそれだけのことではないかと思う。
私は,裁判官として裁判所で仕事をしていた当時,裁判官及び一般職職員を通じて,性差による差別的な問題が存在するということを感じたことが全くなかった。裁判官であれ一般職職員であれ,有能な人は有能な人として評価されるし,そうでない人はそうでない人として評価されるということしかなかった。当時としては,「平等」を意識する必要性が全くないくらい,性差による相違というものがほぼ皆無の職場だったと思う。そのような職場であることによって何かの業務処理上での支障があったかというと,別段何もなかったように思う。
ところで,報道によると,トイレの問題でトラブルが生じ訴訟にまで発展してしまった事例を抱えている職場があるという。
予算の問題はあるけれども,男女共用のトイレを増やしたら簡単に解決できる問題ではないかと思う。
最近では,コンビニのトイレでも男女共用のところが増えており,そのほうがずっと合理的ではないかと思う。
男性だけ排泄器官丸出しで立って用をたす男子トイレが存在するということのほうがどこかおかしいと思うか思わないかは個人の自由なのだが,まあ,男性のトイレにはプライバシーの保障など基本的にない。
それでも普通の男性は特に不平を言わないし,「男性差別だ」と言って怒る人もいないのではないかと思う。そんなことで怒っている時間があったら,仕事をしているほうがずっと有用な人生の時間の使い方だと割り切って考えるビジネスマンが比較的多いからではないかと想像するが,あるいは,そういうことには無関心なだけなのかもしれない。よくわからない。
[追記:2016年5月26日]
関連記事を追加する。
Eleven US states oppose transgender schools edict
BBC: 25 May, 2016
http://www.bbc.com/news/world-us-canada-36384740
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