« 明治時代の廃仏毀釈は政府の命令によるものではなかった? | トップページ | 電気飛行機(Airbus E-Fan) »

2015年8月 8日 (土曜日)

Transitional Justice Theories

下記の書籍を読んだ。

 Transitional Justice Theories 
 Susanne Buckley-Zistel, Teresa Koloma Beck, Christian Braun, Friederike Mieth (Eds)
 Routledge (2015)
 ISBN-13: 978-1138924451

「Transitional Justice」の定訳があるのかどうかは知らないが,通常は,「移行期の正義」等と訳されている。

「正義」について絶対説を前提にすると,移行期も安定期もなく恒常的なものでなければならないはずなのだが,そのことを前提とすると,この概念は,理念としての「正義」が無視されている状態から「正義」を確保しようとする状態へと変動している社会におけるある種の政治的状態のことを示す概念というべきで,法的概念または法哲学上の理念としての「正義」それ自体とは一線を画するべきものだろうと思う。

実現目標としての「正義」それ自体には何らの変動もない。ただ,理念が理念に過ぎず全く実現していない状態や不十分にしか実現されていない状態といったものを観念することはできるから,実は,観察者の評価結果を示す概念だということになる。それだけ主観が混じる要素が大きく,客観的な安定性に欠ける概念だということも可能かもしれない。

そもそも,「正義」が完全に実現されている国など現実には存在しない。どこも不正義に満ちている。要するに,程度の差しか存在しない。現実問題として,この日本国において正義が貫徹されているなどと幼稚なことを考える呑気な研究者は1人も存在しないだろうと思う。

そのように考えてみると,「Transitional」な状態とそうではない状態との境界を示す閾値のようなものはどのようにして定義するのだろうか。かなり疑問がある。

そして,全ての国が「Transitional」な状態にあり,程度の差しかないのだとすれば,そもそも「Transitional Justice」なる概念を用いる実質的意味はないと思う。

単純に,共通概念として受容可能なレベルでの「正義」を定義した上で,そのように定義されたものとしての「正義」が個々の国(または社会)の中で実質的に実現されていると認めることができるかどうかを何らかの尺度を用いて測定し,その測定結果を比較検討し,実現度の高低の主要な要因を社会学的・経済学的・政治学的等の観点から検討・考察するほうが良いと思う。

そんなことなどを雑然と考えながら読み終えた。

|

« 明治時代の廃仏毀釈は政府の命令によるものではなかった? | トップページ | 電気飛行機(Airbus E-Fan) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 明治時代の廃仏毀釈は政府の命令によるものではなかった? | トップページ | 電気飛行機(Airbus E-Fan) »