抑留
しばやんの日々に下記の記事が出ていた。
ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな
しばやんの日々:2015年8月22日
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-407.html
中国東北部での抑留に関しては様々な書籍が出ている。
私の本家の亡くなった叔父(父の実兄)も,終戦時,関東軍に配属されており(職業軍人ではない。),ロシアによって蒙古方面に抑留された人の一人だった。生前に叔父本人から聞いた話では,ロシア軍がやってくる場合には応戦すべく万全の体制を整えていたのだという。たとえ玉砕することがあっても,ロシア兵にも何万人かの死傷者が出たに違いないと言っていた。当時の関東軍にはまだまだ武器弾薬がいっぱいあったらしい。終戦後非常に長い間にわたり,中国政府の要求を完全に無視して中国東北部を占領し,もともとロシアの領土であったところを日露戦争によって勝手に日本に占領されていた地域なので自分のものだとの立場で(それ以前に,ロシアは中国東北部に存在していた非常に大勢の中国人をジェノサイドしていた。ロシアにとっての領土の観念には,モンゴロイドは存在してはいけないので,全て抹殺すべきだと考えられていたらしい。それくらい「タタールのくびき」によるコンプレックスが遺伝子レベルにまで浸みこんでいたと推定することができ,そのことを忘れては適正な対ロシア政策を考えることができない(現代の日本の政治家がそのように考えることのできるだけの知識・教養と判断力をもっているかどうかは知らない。)。その点で,某氏のようなロシアの手先であるかのようにして働いてきた政治家の責任と日本国の国益に対する悪影響は極めて重大かつ深刻なものだと考える。)。
それはともかく,叔父は,何年もの抑留生活に耐えてやっと帰国し,本家の長男として家業の復興のために尽力した。しかし,やはり長寿というわけにはいかなかった。抑留生活による影響があったのだろうと思っている。
叔父が帰国するまでの間,叔父がなかなか帰国しないため.叔父の母(父の母)は,毎日菩提寺に通って祈願・祈祷を続けたという。その思いが通じたのかどうか,叔父は無事に帰国できた。しかし,叔父の部下の多くは,凍てつく異国の地で亡くなり,故国の土を踏むことができなかった。叔父は,部下全員を連れて日本に帰国したいと考えていたのに,それを果たすことができなかったことを終生悔い,家業が安定した後に菩提寺に大きな観世音像を寄進した。そして,終生,その供養に務めたという。
一般に,満州で生まれ満州で育った人々はそれなりの思いがあるだろう。また,職業軍人は別の思いがあるかもしれない。
叔父は,単なる一般国民で,長男として家業を継ぐべき立場にあったのに,召集され兵隊となった。長男を招集されてしまった穴を埋めるべく,当時まだ子供だった父が家業を手伝っていたのだと生前聞いたことがある。
先日,父の遺品を整理していたら,たまたま,父の若いころの日記を発見した。
当時の生きた言葉や思いのようなものがそこにタイムカプセルのようにして記録されていた。
日記の一番最後の頁には,父が台湾を去るときに親しい友人が書いてくれたと推定される送別の辞が記されていた。「岸内糖廠 蘇古布」と署名があった。「比古布都押之信命」か・・・?
その送別の辞には,「歸国に際して夏井さんと語る言葉に東洋諸國を談すると云えば? 吾をして斯く語りせしは東洋に日本と中國は不可分でありと云う 而してそいつは難しい 談ずるのも早いと思ふ 知識欲に燃えた夏井さんを送るに余りも心が許さん 夏井さんは科學者で一個の技術者だ 唯やりませう 諸共に眞理の彼方を見て! 最後に夏井大兄のたゆまない研鑽を念じつつ 再會の時に又 贈夏井さん」と書かれている。この「蘇古布」と署名した方がその後どうなったのかについては全く知らない。蒋介石による台湾人弾圧政策の下で亡くなってしまったのかもしれない。少なくとも,父と再会することはなかっただろうと思う。
父は,事故により片目の視力を失い,闘病生活をしていた。日記によれば,日本が敗戦した翌年ころには退院し病棟から「独身寮」という建物内に移動して居住していたようなのだが,その当時,日本人の技術者は既に他におらず,自分ひとりで岸内糖廠の復興をしなければならないのかと嘆く言葉が書かれている(その前後には同僚と思われる日本人男性の氏名と帰郷先の住所等が記載されているので,順次帰国してしまったものと思われる。判読可能なのは,愛媛県西條市の木村吉男氏,鹿児島県川辺郡勝田村の田畑静雄氏。)。先の「蘇古布」と署名した方については何も書かれていないのでよくわからないのだが,どうも技術者のようなので,父と一緒に岸内糖廠を復興しようとしていた方かもしれない。
ちなみに,本家の菩提寺は曹洞宗の古い寺なのだが,明らかに神仏習合の様相を現代に残す寺で,もともとは素戔嗚神または星神を祀る神社としての機能をも併有していたと推定される。そのことは,瓦等に残る紋によっても知ることができる。本家が幕末~明治維新のころに現在の地に移ってくる前には別のところを本拠地としていた。その元の本拠地において現在まで残っている中心的な寺院は天台宗だ。
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