宝賀寿男・蒲池明弘(桃山堂)『豊臣秀吉の系図学-近江、鉄、渡来人をめぐって』
下記の書籍をしばらく前に三省堂本店で購入し,研究に必要な部分だけとりあえず精読した後,もう一度最初から全部読み直しながら考えてきた。引用・参照している文献が豊富で,それらの原典を全部確認しながら読んでいるので,読み切るのに少し時間がかかった。
豊臣秀吉の系図学-近江、鉄、渡来人をめぐって
宝賀寿男・蒲池明弘(桃山堂)
桃山堂 (2014/7)
ISBN-13: 978-4905342014
タイトルだけだと「とんでも本」の一種ではないかと疑う人もいるだろう。
しかし,私は,この書籍で示される見解に賛成するかどうかは全く別として,内容それ自体としては非常にまじめな研究成果で,敬意に値する立派なものだと評価する。
日本の古代史に興味をもつ人には是非ともお勧めの一冊だ。
以下はあくまでも一般論。
『古事記』や『日本書紀』に記載されている文言(符号)をいくらいじくりまわしてみても,その編纂者が仕組んだ罠の外に出ることができない。
土俵の外に出ることができないのだ。
しかし,少し離れたところから土俵の中を眺めてみると,「なるほど~~」と合点のいくことが非常に多い。
一見すると符号になっていないように見えるけれども本当は符号として残されている歴史がいっぱいある。
それをそのように思うかどうかは主観によるかもしれない。
しかし,もともと国学者の見解だって主観の一種に過ぎないので,どちらが良いとか悪いとか優劣をつける基準などない。
差があるとすれば,権力と権威だけなので,そういうものを一切無視すれば,実はより確実に真理に近づくことができる。
これこそ真の学問というものだろう。
権力と権威に従うということは,同じ土俵の中で,何百年たっても同じこと繰り返し演ずるのこと同じで,要するに,伝統芸能とほとんど変わらない。
それでは,学問としては何の価値もない。
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コメント
江藤貴紀さん
あけましておめでとうございます。
土俵に入りたくても入れてもらえない人もいるし,土俵から出たくても出してもらえない人もいるし,まあ何と申しましょうか,「人生いろいろ♪」ですね。
土俵には土俵の存在価値があるので,それはそれで構わないと思います。
問題は,学問の場合,土俵をしっかり観察しなければならないはずなのに,土俵の中にいる限り,土俵を正確に測定することができないという自己矛盾が存在していることを明確に認識できているかどうかということに尽きるのだろうと思います。
社会生活上の土俵に関して言えば,本人は土俵のように信じていても,本当はせいぜい蛸壺くらいのもので(丸山正男),そのような小さな蛸壺がいっぱい並んでいるだけということがあります。そういうものは「井」ではあり得ても決して「土俵」ではありません。
権力欲をもつことも各人の自由なので,どうせ造るならでっかい土俵を造ってもらいたいものですが,そのような大人物は(残念ながら)どこにも見当たりませんね~~
巨大な土俵を造って統治するためには,単なる私利私欲だけでは絶対に無理です。
『荀子』の「正論篇」を読んでいて,つくづくそう思いました。
本年もよろしくお願いします。
投稿: 夏井高人 | 2015年1月 4日 (日曜日) 17時54分
夏井高人さま
明けましておめでとうございます。
土俵に立ち入らない人たち、というのも別の面で存在しますね。
生存中の自然人がいるはずなのに、うんともすんとも話が通じなかったりします(もちろん応答しないことそれ自体で、一つのレスポンスになっています)。
なのに、土俵に立ち入るかどうかということ自体の重要性を語るメディアが非常に少ないのですが、逆にそれで誰が土俵の重要性をとりあげていないか、についての問わず語りをしていると考えられ、これまた興味深いです。
媒体でも学問でもそうですが、土俵に入るか、土俵から出るか出ないかはそれ自体がストレートにケースごとの権力を反映していて面白いですね。
今年もよろしくお願いいたします。
投稿: 江藤貴紀 | 2015年1月 4日 (日曜日) 15時41分