孔子家語
『孔子家語』は,以前,文庫本になったものをざっと読んだことがあったのだけれども,まじめに精読したことがなかった。そこで,Amazonで見つけた次の2冊をとりあえず注文していたところ,さきほど届いた。
宇野 精一
新釈漢文大系53 孔子家語
明治書院 (1996/10)
ISBN-13: 978-4625570537
吹野 安・石本道明
孔子全書13 孔子家語(1)
明徳出版社 (2014/04)
ISBN-13: 978-4896194432
高校で習う漢文では通説的な解釈しか書いていないし,参考書には嘘が書いてある場合さえある。やはり,地道に複数の異なる注釈書をしっかりと読み,自分なりの見解を形成するしかない。学問にショートカットはないのだ。
今回購入した2冊の中で特に知りたいと思っていた部分に目を通し,解釈者による微妙な相違点なども理解することができた。全篇をきちんと精読したいと思う。
一般に,法の運用とは,事実に法規範を適用して判断結果を得るという思考作用によって構成されていると説明されている。この説明それ自体は一応正しいとして,法の適用対象であるはずの「事実」なるものがすこぶる厄介な存在だ。
事実そのものは,非線形的な存在なので,常に過去の闇の中へと流れ去ってしまう。
だから,人間は,何らかの資料に基づいて過去に起きたかもしれない事実を推測するしかない。言い換えると,人間の脳内の思考の結果として推測される事実は存在し得るが,事実としての事実は存在しないということになる。
あまりにも当たり前のことなので反論はあり得ないと思う。
ところが,非常に多くの人々が,「事実」というもののもつそのような不確実性をちゃんと理解していないように思う。
法学者や裁判官でさえそうだ。
現代の法的課題の検討を進めながら,ある符号の意味するところが曖昧でよくわからないということがあまりにも多い。国語辞典等に書かれている定義の中には妙なものが少なくない。そこで,納得いくまで古い資料に基づき,自分なりの定義を得るために考究を重ねることになる。日本語文献で足りなければ,中国語でもラテン語でも何でも読む。
それでもよくわからないことが圧倒的に多い。
学問は終わることがないのだろうと思う。
そういうことを自覚した上で,いくつかの仮説をたてながら論文を書いてきた。
先人の業績の中には私と同じように悩み苦しんだ形跡のあるものもあるが,一般的には単なるうけうりを前提にしながらも確定的に確実なものであるかの如く断定的に書かれているものが多いように思う。だから論文としての脆弱性がある。
論文は,思考の結果を記録した符号の集合に過ぎないので,そもそも不完全なものというべきで,それ自体で全てを理解することは不可能だ。
更に教養を蓄積し,可能な限り汎用性の高い定義を構築し続けようと思う。
(追記)
大学の講義では,法令の適用の対象となる「事実」をどうとらえるのかが一番難しいのだということをずっと教えてきた。
事実を可能な限り正確にとらえるためには,理系・文系の相違とは無関係に広範な教養の蓄積を要する。
そのため,「教養を強要する教授」を自認してきた。
1つの学年で数名の学生は,私の言いたいことを理解して卒業してくれる。ほんの数人でもとても嬉しい。
そういうことがなければ,大学での教員としての仕事など疲れるだけなので,教育に関して「やる気」を維持することは到底不可能だ。
一般に,教養は学生各自が積むべきもので,私がどんなに勉強しても学生の頭がよくなるわけがない。学生は自分で努力して勉強しなければならない。大事なことは,「よくわからないことのほうが多い」という当たり前のことに気づくことだと思う。それに気づかせるのが私の仕事というわけだ。
今後もそのように気づいてくれる数人を育てるために頑張り続けたいと思う。
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