宰相の品格
どこの国と特定しているわけではなく,どの国でも同じなのだが・・・
民主国家において,その国が民主国家である以上,様々な見解の相違があることは当然の前提となっている。
民主国家においては,様々な異なる見解について,相互に批判することは,表現の自由・言論の自由・報道の自由に属する。
だから,基本的に,誹謗中傷を目的とするものではなく公正な言論の範疇に属するものである限り,何を言っても良い(←無論,自由な言論に見せかけた犯罪行為は許されない。)。
このことは,政治でも同じで,ある政党Aが多数政党である場合に,その政党の党首Xが首相となり,Xが採用・実施した政策への批判に対して反論することは,その政党A及び党首Xの自由の範囲内に属する。
しかし,宰相の品格というものを考えなければならない。
政治力学的には,政党Aの事務局長やXを補佐する閣僚等が反論したほうがベターな場合が少なくないと思う。
一般論としては,独裁主義的な傾向の強い宰相の場合,自分が万能であることを示し続ける必要があることから,何でも自分でやりたがる傾向があるかもしれない。自己過信の強い宰相や自意識過剰の宰相でも同じだろう。精神分析医であれば,実は劣等感や自信のなさからくる反応のようなものとして躁状態的な自己顕示的行動に出ると分析するかもしうれない。
しかし,真実は宰相としての力量が伴っていない場合,客観的にはかなり悲惨または滑稽な状況が現出し得る。
また,戦略としてではなく戦術の問題として,言論・報道の自由があると言明しつつ,同時に,報道の具体的内容を批判することは得策ではないように思う。自由があると言ったはずの言論・報道の自由に対して抑制的な効果があることは言うまでもない。
世界各国の首相が競ってテレビに出たがるし,トップ外交をやりたがるが,実は未熟の極みではないかと思う。
日本国はとても歴史の古い国なので,1000年以上も前にそのような状態を脱却してしまっている。
徳川家は,将軍自らが執政するのではなく,家老等の重鎮に重要事項の決定と執行等を執務させ,将軍自身は表に出ないようにした。ただし,家老が決定したことでも,権限の関係があるので,将軍の名で命令が下された場合が多々ある。古文書を多数読んでいると,このような大義名分と実質とが乖離・相反している事例の証拠を多々目にすることがあり,非常に興味深い。
もっと古い時代,天皇が大王であった時代には天皇は親征をしたのだと新井白石『読史余論』は述べている。それと同時に,その後はそうではなくなったとも書いている。政治の在り方を考える上で貴重な一言ではないかと思う。
私自身は宰相でも何でもない単なる個人なので,好きなように行動し,好きなように言論して良い。
しかし,宰相は異なる。
権力をもつということは,個人としての自由の大部分を捨てることと一緒だという当たり前のことを知らない者は長続きしない。
その母体となっている政党も一蓮托生ということになる。
人間というものは,その生存本能から,そもそもひがみやすい動物であり,遺伝子がそうなっている以上,そのようなカルマのようなものから脱却することは不可能だ。つまり,永久に解脱することがない。
なかなか面倒な動物だと思う。
(追記)
あくまでも一般論なのだが,独裁者が独裁者であるためには,その独裁者を独裁者とすることによって利益を得ている大量の人々が存在しなければならない。いわゆる「とりまき」だ。この「とりまき」が存在しない場合,誰かが「自分は神だ!」と大声で述べても,精神的に失調をきたしている者だとして扱われ,独裁者になることなどできない。
このことから,特定の独裁者が悪人であったと仮定した場合,当該独裁者だけが悪人なのではなく,実は,独裁者が独裁者であることを利用して利益を得ている「とりまき」が本当の悪人であるのが普通だということになる。
しかし,過去の日本の場合,トップが戦争や政争等で負けると,トップだけを殺したり島流しにしたりし,そのとりまきまでは類が及ばないようにしながら,どうにかそのとりまきを自分の支持母体にとりこむという賢いやり方を採ってきた。
殿様が切腹し,その家族が自害すれば,あとは領主を交換するだけで領民を殺すことが少なかったのは,そのせいだと思われる。
領民にしてみれば,飯を食わせてくれる殿様はどの殿様でも良い殿様なわけで,そこはかなり現実的な利害打算だけで動いてきた社会ではないかと考える。
さて,現代ではどのように考えるべきだろうか?
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