日光東照宮周辺の文化財と自然はどうして生き残ることができたのか
ときどき読みに行く「しばやんの日々」に廃仏毀釈と戊辰戦争がらみで日光東照宮に関する記事が出ていた。いつもながらに考えさせられる記事だ。
戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
しばやんの日々:2014年10月16日
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-350.html
日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
しばやんの日々:2014年10月22日
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-351.html
私の大学における担当科目(植物と法)との関連で言うと,日本の「自然」なるものがいかに人間の社会生活と密着したものであるのかを日光東照宮の事例からも推測することができる。
あまりよく勉強していない自然保護論者は,「放置すること」または「人間を排除すること」が「自然を守ることだ」と単純に考える傾向がある。確かに,そうしたほうが良い地域はある。
しかし,日本国の国土は狭い。有史以前から徹底的に利用され,海外から優れた草木や動物を移入して濃密に繁殖させることができるように意図的に構築された人工的または箱庭的自然,それが日本の真の自然の姿だというのが私の見解だ。
だから,日本の自然環境の大半は「半自然」の状態にあり,人間の関与がなくなると崩壊してしまう。
日本人は,古来,非常に優れた栽培・繁殖能力と技能をもっていたのでこのようになった。海外で単純にマネしてもうまくいかない。
「育む」という思想が必要なのだ。
明治維新以降,「奪う」を基本とする政治経済思想が日本を支配してきた。
再考すべき時期が来ていると思う。
ただし,日本以外の国々では,いまだに原始的な「奪う」を基本とする統治者が君臨しているところが多数ある。
だから,無防備でいるわけにもいかない。
なかなか面倒なところだが,それをうまく乗り切るのが知恵というものだろう。
[追記:2014年11月9日]
実質的な続編とも言える記事がアップされている。
古き日光の祈りの風景を求めて~~日光観光その1
しばやんの日々:2014年1月28日
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-352.html
紅葉し始めた日光の輪王寺と東照宮を歩く~~日光観光その2
しばやんの日々:2014年11月2日
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-353.html
日光二荒山神社から国宝・大猷院へ~~日光観光その3
しばやんの日々:2014年11月7日
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-354.html
私見によれば,神道が仏教と習合したのではなく,もともと仏教(ヒンヅー教)だったところに国家神道とも言える律令制度下での神祇官の政治的介入により習合的な状況が発生したと考える。
それ以前の時代においては,素朴にそれぞれの氏神を祀っていたのではないだろうか。
ただ,関東地方にはある特殊性がある。
それは,榛名山の大噴火による絶滅的危機状態が存在したという事実だ。
歴史学者の多くはこの事実を軽視している。
また,古墳時代以前には関東地方の低地の大部分は海だったということだ。江戸時代においても大宮氷川神社がある見沼周辺はかなり広範囲に水辺だったのだが,それ以前の時代には低地の大半が水面下にあったと考える。中世のころには陸地化がだいぶ進行していたと推定されるけれども,それでも水面下の土地が多いため,城が形成される場所は比較的海抜の高いところに限定されていた。考古学者の多くは,様々なデータを水平的に結合して考えるということをあまりやっていないので,断片的で限定的な知見が少なくない。もっと高度にマクロな観察と考察が求められていると言える。
関東において水神(龍神)を祀る神社がかなり多いのは,歴史的由来と地理的条件の相互作用によるものではなかろうか。
また,素戔嗚神を祀る神社が多く,天照大神を祀る神社は比較的少ない。これは,そもそもの歴史的成り立ちに由来するものだと推定している。通説でも,応神天皇の時代におおける神道の導入を前提に,応神天皇が天照大神とは関係なしに神功皇后から生まれたことを原因と考える説が多い。しかし,応神天皇が一体誰なのかをよく考えてみると,非常にわかりやすいことだと思う。関東地方では,もともと秦族による入植(屯田)が行われ,大いに栄えていた。毛國と呼ばれ,その名の由来は不詳とされているけれども,最近,許國だったのではないと考えるようになってきた。「許」のつくりである「午」は,「うま」であり,稲荷観音や馬頭観音と関係がある。要するに秦族だ。その毛國が榛名山の大噴火により壊滅的打撃を受けた後,東海や西国から移動して再入植(再屯田)したのも秦族だったと考える。しかし,時代は白村江の戦に負けて唐の影響を強く受ける状態へと変化した。そこで,様々なことが起きたのだけれども,地元に住んでいる人々は自分達の由来を覚えているから,それを密かに寺社に化体させながら今日に至っているのではないかと考える。いわばマリア観音の古代バージョンのようなものだ。
本地垂迹説もまた,本来の歴史を述べることを目的として構築された理論体系なのだろうと思う。しかし,天皇と朝廷に弓矢を向けていると疑われることを恐れ,極めて巧妙にカモフラージュされている。けれども,宗教上の教義として理解するのではなく,隠された歴史を述べるものだと解釈すると,いろんなことがわかってくる。
各地の古い寺社の伝承は可能な限り大事にすべきものだと思う。
東国には東国の歴史があり,その小さな断片が古い伝承の中に隠されていることがある。
明治維新以来の統一国家のようなものを絶対的な前提として古代社会を理解しようとするから妙な学問が横行することになる。そんなことは絶対にあり得ない。仮に形式的にはそのようなものだったとしても,古代豪族や民衆は,面従腹背に徹したのだろうと思う。
応用的に,平将門の乱は,皇位継承戦争たり得たと考えることがあるし,中世以降の坂東武者の隆盛の起源もまた大宝律令以前の時代の王統に起源を求めることが可能ではないかと考えることがある。
そして,そのような大宝律令以前の時代における王統の歴史の残滓が日光東照宮にもあると考えている。
現在の日光東照宮は徳川家光の寄進により見事に荘厳されている。世界に誇ることのできる立派な文化財の一つだと思う。しかし,その基本プランを見ると,前方後円墳と同様の特殊な様式が採用されていることを理解することができる。まさに,日本における真の歴史の隠し方の基準標本のようなものだと思う。家康は,真の歴史を知っていたのに違いない。
狸貉事件について研究していた当時,日光周辺の小さな神社や寺院を丹念にみてまわったことがある。その当時には,漠然とした想像的な印象しか得ることができなかったが,現在ではより明確なかたちで私の脳裡に一つの理論が構築されつつある。
陸奥國から旧街道を経て日光周辺に至る地域は,従来考えらている以上に歴史上の重要性の高い地域だったのだろうと推定している。街道筋に残された古い寺社や古墳などがそのことを物語っているように思えてならない。
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コメント
しばやんさん
コメントありがとうございます。
日光には何度も出かけ,ずいぶんとあちこちを見て回りました。
東照宮造営の前の時代に特に注目しています。
日光周辺には謎の地名が多数あり,古墳時代またはそれ以前の様子について,もっと掘り下げた研究が必要だと思っております。自分には余力がないので,歴史学者や考古学者の奮闘を期待します。
戊辰戦争に関しては,官軍と賊軍とで感慨にも異なるものがあるでしょう。現代まで遺恨を引きずっている人はあまりいないだろうと推察しますが,比較的最近の時代に起きた大規模な殺し合い事件でもありますし,そのような歴史があったという事実を踏まえてものごとを考えないと,いろいろと問題を生じさせてしまいますね。特に政治家にはしっかりと勉強してもらいたいところです。
日光周辺に霊力があるかどうかについては,俗物である私にはまったくわかりません。ただ,地質学的には極めて興味深いところで,その関係で,仮に極めて微弱なものであるにせよ,何らかの物理的なエネルギーが現実に存在している可能性はあり得るのではないかと思っております。
投稿: 夏井高人 | 2014年10月29日 (水曜日) 13時25分
夏井さん、いつも拙ブログを紹介していただきありがとうございます。
戊辰戦争の両軍にせよ、廃仏毀釈に係った人々にせよ、日光の自然と文化財を破壊してしまうことは忍びないという気持ちがあったのでしょう。
造形美ではありながら、美しい自然に調和する美しさは、残しておきたいと考えるのが日本人なのでしょうね。
今回日光に行って、徳川幕府が開発する前に日光の中心地であった場所を訪れてきましたが、無人の建物ながら、境内や参道がきれいに掃き清められていました。
千年以上の聖地であった場所の不思議なパワーを戴くことができました。
投稿: しばやん | 2014年10月29日 (水曜日) 12時31分