最近読んだ中国の書籍
とにかく忙しくてどうにもならない状況が続いていたが,やっと落ち着いてきた。
通勤電車の中で本を読んでいる。
最近,下記のような本を読んだ。
臨夏回族自治州史話
馬 志勇 主編
甘粛文化出版社(2004/7)
ISBN:978-7-80608-983-5
陝西服飾文化
蘭宇 著
陝西師範大学出版社(2014/6)
ISBN: 978-7-5613-7741-3
錫伯族
阿蘇・盛豊田・何栄偉 著
遼寧民族出版社(2012/3)
ISBN: 9787549702220
芝山古墳(千葉県)出土の埴輪の山高帽がずっと気になっていたのだが,ほぼ確実と思える推測がつくようになってきた。古代の鮮卑族に間違いないと思う。
鷹匠についても更に知見を深めることができた。
何よりも,現代中国の少数民族が古代文化のかけらを保存しているようだというあたりが無条件で嬉しい。
気になる地域がまだまだあり,引き続き資料収集中。
現代の様々な問題を正しく理解するためには,かなり昔のことをきちんと理解しなければならない。
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コメント
江藤貴紀さん
外国語で書かれている昔の本は,当地のネイティブの人にとっても難しいです。これは,ごく普通の教育しか受けていない日本人が「日本の古典について適切に批評せよ」と言われても困惑してしまうのと同じです。
文字(符号)は文字(符号)に過ぎないので,「その符号が本当は何を指し示しているのかを知っているのは書いた本人だけ」という障壁を乗り越えることのできる人は本人以外に誰もいません。
そういうわけなのですが,客観的な批評が全く不可能なわけではなく,ある文章に含まれている論理それ自体の適否を現時点で考察して批判することは可能だと思います。これは著作物に対する批評ではなく論理に対する批判ですね。
ところが論理に対する正確かつ適切な批判をすることは,それ自体としてとてつもなく難しいことです。それで,安易に,「ないようがないよう(内容が無いよう)」の「批評もどき」に走ってしまうことになるのでしょう。
本来の意味での批判をすることができる人というのは,作曲の天才や超人的なアスリートなどと同様に,神が微笑みかけてくれたごく少数の人だけであり,教育や訓練をすれば誰でもできるようになるというようなものでは全くないと思っています。
ちなみに,ここに掲げた中国の書籍は,どれも内容的に意味のあるものを多く含むものなのですが,残念ながら「パクリ」ではないかと推定される部分を含むものもあります。中国の書籍だけではなく日本の関連分野の書籍や論文全部を読んでみないと確定的なことは言えませんが・・・学術書については全てデータベース化して自動検索できるようにしてほしいと思っています。そうすれば,自動マッチングによってパクリを自動的に検出することができるでしょう。世間には実に多いです。
ただし,パクリと依拠とは異なります。出典を明示しつつ正当に適法な方法で依拠している場合にはパクリではありません。そこらへんが難しいんですね。
それと,学生の答案やレポートを読んでいると,「どうして関連書籍や辞書等にあたって調べてから書かないのだろうか?」と思うことがときどきあります。「自分が記憶していることは常に正しい」と思いこんでいるのかもしれません。そういうタイプの学生は,決して進歩することのないタイプの人間なのだと思っています。
ただ,「もしかすると自分は間違っているかもしれない」と思い始めると不安に陥り神経症的症状を呈する人もあるかもしれません。
それゆえ,深い思考のためにはある種の鈍感さのようなものやタフであることなどが求められるのかもしれません。
投稿: 夏井高人 | 2015年7月31日 (金曜日) 07時07分
夏井高人様
「内容が無いよう」な意見はとても多いですね。
例えばある見解について取り上げる場合、その論拠が現代技術のおかげで極めてアクセスの容易な形で書いてあるならばそれに当たってからものをいえばいいのになーと思う訳です。
(解釈がおかしいという批判だろうと、なんだろうと原典にあたってすればいいわけで、適当に日和ったコメントを書いて何の意義があるのか全く不明です)
現代日本語で書いてある見解に付いてすら、容易に原典に当たられるのに様子見をしたいというような方が影響力をもっておられるのを見ると、ミルらの「思想の自由市場論」などはどこかで間違っていたのだなと思います。
となると、①外国語でしかも昔のことについて書かれている内容を正しく理解する人が現れて②それが世の中に膾炙するための道のりは、「ああ、非常に長いのだろうな」とペシミスティックに思います。
江藤貴紀
投稿: 江藤貴紀 | 2015年7月31日 (金曜日) 03時06分