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2014年9月28日 (日曜日)

光秀=天海説

ときどき読みに行く「しばやんの日々」に「光秀=天海説」を素材とする記事が掲載されていた。

 光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1
 しばやんの日々:2014年9月25日
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-346.html

タイムマシンは存在しないので歴史上の真実を断定する方法も存在しないのだが,たしかに仮説としてはあり得る考え方の一つだと思った。

歴史学というものは,もともと「仮説」の集合体であり,事実そのものではない。事実は非線形的に消えてしまうものなので,過去は常に推論の世界に混入していかざるを得ない。過去そのものが推論の世界の存在である以上,客観的な事実そのものではあり得ないのだ。

だから,どのような仮説でも考える際の素材としては平等に尊重しなければならない。ただし,他人のたてた仮説に対する取捨選択の自由も当然あるので,それぞれの仮説に対する自己の態度決定も全く自由だ。

従来の偉い学者が唱えた通説もまた仮説の一つに過ぎないので,推論特有の欠陥が常に内在されている。このことは,私がいろいろとたててみる仮説でも全く同じだ。

提示されている説が仮説に過ぎないという点では素人でも専門家でも全く異ならない。

ただ,プロは,それなりに論拠をしっかりと検証した上で説をたてるし,著作権法上の問題がないように検討した上で論文を書く。これが全くできていない者は,仮に有名大学教授であってもプロではない。

また大学教授と素人では少し異なる要素がある。それは,有名大学教授であれば新聞社や雑誌社等とそれなりのコネがあるし,また,弟子を使って反対説を徹底的に叩きまくることもできる。しかし,素人にはなかなか難しい。そういう意味での政治的力関係の相違は歴然としていることが多い。しかし,「通説」なるものは所詮その程度のものであり,真実に近いかどうかとは無縁なこともあるということを理解することができる。

[追記:2014年10月1日]

続編がアップされていた。とても面白い。

 南光坊天海は明智光秀と同一人物なのか…「光秀=天海説」を考える その2
 しばやんの日々:2014年9月30日
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/

日本史の中には謎の人物が何度も登場する。事実上の襲名のようなものもあり,その代表例が「但馬守(田道間守)」ではないかと思う。光秀の所領とも関連する。

襲名または個人名ではなく職名または尊称の類ではないかとの疑いのある名で謎の名は他にもいくらでもあり,例えば,「武内宿禰」がその代表例だ。

[追記:2014年10月14日]

実質的に続編とも読める下記の記事が出ていた。

 家康の死後の主導権争いと日光東照宮
 しばやんの日々:2014年10月11日
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-349.html

私が思うには,家康は,古代のことをよく知っていたと思う。当時存在してた古文献を収集し,読み,理解していたのに違いない。

自己の葬儀は,古代の斎宮のやり方と基本的には同じということになるだろう。ただ,現実に家康が亡くなると,その葬儀の実施方法について吉田神道が横やりを入れたので,実際には少し異なる経過を辿ることになったのだと考える。

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コメント

しばやんさん

コメントありがとうございます。

パート2も興味深く拝読しました。

私の専門分野は歴史ではなく,自分の研究に必要な範囲内で歴史を少しかじっているだけなのですが,それでも通説にはおかしなところがあると感じることが多々あります。そこで,断定ではなく,あくまでも仮説として幾つかのあり得るストーリーを提案したりしています。ほとんど無視されておりますが・・・(笑)

「歴史学の大家」と自称してはばからない方の中にはタイムマシンをお持ちの方があるようです。かつてよりは少なくなったとはいえ,「自説以外は一切認めない!」という方がまだまだ多数おられるようです。反対説を述べる弟子には容赦なく鉄槌を加えます。アカデミックハラスメントの極みというべきでしょう。

そして,まるで事実を実際に見てきたかのようにリアルに歴史を描くのが共通した特徴とでも言いましょうか・・・

私にもタイムマシンを貸してもらいたいです(笑)。

しかし,学問は自由でなければなりません。

投稿: 夏井高人 | 2014年10月 1日 (水曜日) 08時45分

夏井さん、いつもコメント頂きありがとうございます。

光秀の墓のある西教寺には3つの首が届けられましたが、いずれも皮がはがされていて本人の首であることを確認しないまま葬られたとの記録があるようです。

誰もが光秀の首を奪おうとしていたのにもかかわらず、百姓がたまたま「拾った」首が、光秀の首であるとどうして断言できるのでしょう。しかも、秀吉が首実検したのは真夏の暑い時期で、光秀が死んでから3日も経っていて、相当腐敗がすすんでいたはずです。

光秀が生きていたかもしれないと思わせる伝承や肖像画などがいくつか残されていますが、肖像画や石灯籠などが制作されているのは、すべてが秀吉が死んだあとであることは偶然だとは思えません。

秀吉が権勢をふるっている時期には、生きていたら当然殺されていたでしょうし、偽名を使って岐阜の山奥に生きたということは充分にありうることだと思います。秀吉が死んで、徳川の世の中になりそうな時期から、山を出て活動を始めることは充分にありうる事だと考えています。

「歴史学というものは,もともと『仮説』の集合体であり,事実そのものではない事実は非線形的に消えてしまうものなので,過去は常に推論の世界に混入していかざるを得ない。過去そのものが推論の世界の存在である以上,客観的な事実そのものではあり得ないのだ。」…私がいつも思っていることを、うまく表現されるのに感心しました。さすがですね。

その2を先ほどアップしておきしたので、よかったら覗いてみてください。


投稿: しばやん | 2014年9月30日 (火曜日) 23時16分

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