最高裁:推定と擬制の相違を否定した事例
下記の記事が出ている。
父子関係、DNAで覆せず=「婚姻中は夫の子」で初判断-血縁なくても認定・最高裁
時事通信:2014/07/17
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&k=2014071700561
遺伝子による系統判断という科学的真理を一切否定する魔女狩り的判決と言える。
さすがに裁判官出身の白木判事と金築判事は、反対意見。両氏とも立派な裁判官だ。個人的に面識があり,個性は強く,見解の当否について異論のある部分もないではないが,私は信頼している。
それはさておき,一般に,「推定」は確たる立証があれば覆すことができるというのが法律学上の公理の一つだ。遺伝子解析よりも精度の高い証明方法はちょっとなさそうなのに,それでも覆せないとなると,事実上,反証は一切許さないと判決をしたのと同じことになる。法治主義に完全に反する。
しかしながら,とにもかくにもこういう判決が出た以上,全ての法律用語辞典は書き換えられなければならないことになった。
すなわち,「推定」は「覆すことができない」。したがって,「推定」と「見做す」とを区別することもできない。
司法試験の出題において,推定と擬制の相違を問う問題を出すこともできなくなる。
また,刑事裁判においてDNA鑑定を証拠とすることができない。更に,個人識別において,遺伝子要素を用いてはならない。虚偽であろうと間違いであろうと何でもかまわず,戸籍に記載された文字だけを頼りに判断すべしというのが今回の最高裁判決のご託宣ということになる。
私も大学ではそのように教えることにしよう。
元裁判官として,あまりにも情けない判決としか言いようがないのだけれど,判決は判決だ。
日本国は確実に腐食しつつある。
(余談)
裁判官も神ではなく人の子なので,間違うことはある。
最高裁判事全員が間違ってしまった事例は(冤罪事件の歴史をみれば明明白白のとおり)いくらでもある。
それゆえ,私は,既出の論文等において判決の無効論を主張してきた。最高裁判決については,先例としての拘束力をもたないというかたちで解釈論を展開している。
(余談2)
嫡出子と非嫡出子との相違を差別と解する見解との整合性も検討を要する。
なぜなら,法律上推定される子と推定されない子との間で差を設けることが差別となり得るからだ。
同じ手法によって解析された結果として,推定される子と推定されない子のどちらについても99.99パーセントの確率で親子関係が認められる場合,相違は,戸籍の記載だけということになる。にもかかわらず,事実ではなく戸籍に記された文字を尊重すべきかどうかという価値判断になる。
他方で,今後は,遺伝子の相違に着目した微細な治療方法がどんどん増えてくると考えられる。その場合,医療の分野では戸籍記載を完全に無視して事実を直視した治療をしなければ医療過誤事件が発生しかねない。そういうことも考えなければならない。
(余談3)
病院等において新生児の取り違えなどの過誤が発生し,別人の子を自分の子と思って育ててしまっていたことが後に判明するという事例が少なからず存在する。このような事例でも決め手になるのは遺伝子解析だ。このような事例では,戸籍訂正等の手続きにより対応している場合がある。しかし,今回の最高裁判決は,このような事案についても深刻な影響を及ぼす危険性がかなりあると考えられる。
他方で,戸籍上では親子関係が認められなくても遺伝子上では親子関係のある者については,当然,相続権を認めてしかるべきだと考える。戸籍上の記載は,単なる符号に過ぎないので,事実を優先すべきだからだ。このことは,大災害等により戸籍記録が全て消滅してしまったらどうなるか(あるいは,可能性としてはほとんどないかもしれないが,戸籍制度が廃止されたらどうなるか)というようなことを想定してみると明らかだと思われる。そのような場合には,遺伝子鑑定により親子関係等を決定するしかない。すると,民法上の親子関係の推定規定とは全く無関係に,遺伝子上の親子関係の確認を求める訴えを考える必要があり,その訴えの利益を肯定すべきことになる。異論は多いと思われるが,ミクロ的にではなく,マクロ的に全ての法制度を整合的に維持しようとするのであれば,私見が最も正しい。ミクロ的な視野・考察能力しかない者(キャパに欠ける者)には「思考可能性がない」という意味で理解不可能なことかもしれないが・・・
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