一大卒
極めて難解なのだが・・・
大宰府の「太宰」あるいは太政大臣の「太政」と本来同義語で,大王(天皇)の名代として事実上のトップの機能を果たしていた者ではないかと考える。
古い神社では,宮司が王(国司)で,その名代として事実上のトップの役割を果たすのが禰宜だったとされているので,そのような関係ともパラレルになる。
明治時代の華族制度下において,陸軍大将は事実上の軍トップだったのだけれども,統帥権は天皇にあり,陸軍大臣の一存で開戦したり終戦したりすることは許されていなかったということともパラレルになる。
海水面が現在よりもずっと高かったために平地というものがほとんど存在しなかった古代の日本においては,海軍とそれに付属する陸戦隊だけが存在し,独立した陸軍は存在しなかったと考える。幕末まで続いた西日本各地の水軍は,古代の海軍の子孫だということにほぼ間違いない。
それゆえ,上記のような推論が正しいとすれば,一大卒は海軍大将であったか,または,海軍大将を差配することができた者だったはずだ。
より具体的には,海神(龍神)をどう考えるかに尽きる。
仮に大国主が元の大王であり,猿田彦が一大卒だったと仮定した場合でも,武甕槌命と経津主命をどう位置付けるかによって見解が幾通りにも分かれることになるだろう。
私は,武甕槌命は国譲りの後に鹿島に軍港都市を構築して常陸国の国司となり,経津主命は富津に軍港都市を構築して安房国の国司となったのではないかと仮定し,いろいろと考えている。
瓊瓊杵尊は,国譲りの後に「新たに禰宜(新禰宜)となった神」と解釈することになるのだろうと思う。
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