高天原の神の立場にたって日本のほうをながめるとどんなかたちに見えるかを考えてみた。
実に弓のような月すなわち三日月型になる。
孔子のいう東方の人々(弓)とは,まさにこのことを示しているのではなかろうか。
そんなことを考えながら,更に物部守屋(弓削守屋)の「弓削」の「削」は「月」の隠し字ではないかとも思った。つまり,仮説としては「弓削」は「弓月」であり得る。
そして,弓月氏は月読神でもあり得るのではないかと思う。このようなことと関連しそうな神社は多数存在するが,その中でも子檀嶺神社(長野県小県郡青木村大字田沢字宮下)に注目したい。
ヒンヅー教では,月の神は「チャンドラ(戦捺羅)」または「ソーマ(蘇摩)」で,特に「ソーマ(蘇摩)」は薬草(霊薬)の神としても知られる。また,「蘇摩」は「薩摩(菩薩としての蘇摩)」にも通ずるし,また,音だけだと「蘇我馬子(蘇馬)」と同じになる。
事実,物部宗家の名を調べてみると,草と関係する名前をもつ者が決して少なくない。おそらく,物部宗家は,秦氏と同一の氏族であり,日本に麻,稲,桑(養蚕),石斛などをもたらした渡来氏族なのではないかと考える。忌部氏もまた同一氏族と考えると(物部氏は「忌寸」の姓を賜ったことがある。忌部氏が支配した千葉県の夷隅郡の「夷隅」は「忌寸」から転じたものかもしれない。),物部は秦氏の軍事氏族的側面を示し,忌部氏は秦氏の農業神的側面を示すものと考えることもできる。
ソーマの秘薬とは,麻の生成物だったかもしれない。
ついでに太陽神についても考えてみた。
ヒンヅー教ではスーリヤ(蘇利耶)となる。由来から推測すると,元は古代ギリシアの神であり,ゼウスの子としてのアポロンと同一神なのではないかと思う。
ちなみに,スサノオは,剣で象徴されるので「星」の神ということになる。
これで,「月」,「日」,「星」の三光となる。由緒正しい神社にある三つ巴紋の起源はここらへんにもあるのかもしれない。「巴」は「菱」や「葵」によって置き換えられることもある。日本の古い紋には,植物を図案化したものが多い。農業神としての伊弉諾・伊弉冉から始まるとする祖先信仰を基礎とする国家なので,そうなったものだろうと推定され,世界でも類をみないものだ。強いて言えば,古代ギリシアと古代インドにその原型のようなものを見出すことができることがある。
いずれにせよ,神仏習合によって後代に同視されるようになったのではなく,もともとそうだったのだろうと思う。
高天原から四方を眺め,史書を書くという感じで考えてみると,また別の古代史を描けるのではないかと思う。
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『神皇正統記』には伊弉諾と伊弉冉の梵語による読み方(解釈)が示されており,非常に興味深い。
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周防が秦氏の本拠地だったことは間違いないとして,土佐の長曾我部氏や薩摩の島津氏なども秦氏を祖としているというあたりが非常に興味深い。
戦時中に出征した裁判官の多くは主計将校としての職務を遂行した。これまた古代の復元的な発想に基づくものではないかとも考えられ得る。物部氏の系統に属する者の中には律令時代における法律関係や財務関係の重要な地位にあった者が少なくない。
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「弓月君」は,姓名ではなく,雅号のようなものだと考える。
歴史の真実は,「我こそは弓月(倭国)の君主である」と述べて渡来したということなのだろう。
このときに起きた大国主の禅譲が「国譲り」であり,後代になって真の歴史が解明されにくいようにするため,年代を隠ぺいする工作を加えた上で『日本書紀』が編纂されたのだろうと思う。
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『神皇正統記』は,南朝軍が京都を攻めた際に奪った中臣氏宗家所蔵の古文書を基礎として書かれたものだと推定される。北畠親房は,入手した中臣家所蔵古文書を熟読玩味し,歴史の真相を見抜きながらも,しかし,南朝を背負って立つ武家貴族として,天皇家の歴史として伝えられてきたことを根底から覆すようなことを書くわけにはいかず,『日本書紀』などの記述に基づいて神代を書いたのだろう。当代随一の極めて博学な学者だと評価することができる。しかし,注釈部分を丁寧に読んでみると,「本当は真相を知っているぞ!」と述べているように読める部分がある。余談的に付された諸々の事跡や注釈的に記述された他文献への参照こそ,実は,真実の歴史を解明するために必要な重要な暗号解読手段を後代に残してくれたものだと考えている。
北畠親房は,『日本書紀』に記された歴史的時代とは異なる時代の部分で特定の人物や神について述べている。それは,「本当はこの時代に起きたことだ」ということを示す趣旨に間違いない。
この書を読むと,「宗像」と秦氏や八幡との密接な関係や,位置づけのよくわからない「三筒神」が神として祀られる前は誰だったのかを考える上での重要なヒントを得ることができる。「筒」は「つつ」ではなく「竹(田家,多家,建)に同じ」と読むか,または,「籠」または「龍 胆」と同義として理解するとわかりやすい。
「多家(太家)」は「王家」であり,日本国の王家は,?→伊勢→常陸と移動し,そしてまた戻った。『神皇正統記』にある中臣鎌足(鎌子)の出自に関する詳細な記述は,信憑性が高いと考える。『呂氏春秋』にもあるとおり,采女をもつことは皇帝にのみ許された特権だった。しかし,鎌足は天皇から采女を賜った。このことの政治学的意味については諸説成立可能と思われるが,私は,『随書』にある極めて難解な数行の記述が解明のための重要なヒントとなっていると考えている。『随書』にある倭国の統治者は複数存在しているように見える。これは魏晋南北朝のころに,名目上の皇帝と実質的な統治者である豪族との連合体制のような政体をもつ王朝が多かったことと全く無関係なことではないと思われる。
他方で,出雲に関する記述にも注目すべき部分が多く,おそらく古代に起きた真の出来事を反映する部分を含んでいるのだろうと推測する。なお,「大国主」を現代語に直訳すると,意味的には「国王」となるのではないかと思う。
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「太秦」は「秦王」と読み替えるべきだろうと思う。
秦王国の中心地が周防から河内へと移動したことを意味するのだろう。そうした時代の著名な豪族として「秦河勝」が存在する。私は,真の姓名ではなく,「秦氏であり,河内を所領する勝氏」と読み,襲名により何代か続いた「秦河勝」が存在したのではないかと推定している。現代まで続く勝氏は,秦氏の直系の子孫ということになるのだろう。
魏の最後の皇帝曹芳は皇帝の地位を司馬氏に奪われ(←形式は禅譲),王に降格されて余生を送った後,「河内」というところで没した。この「河内」とは中国内にある地名を指すとするのが通説なのだが・・・
司馬氏によるクーデターの際,曹氏に属する主要豪族はみな殺されてしまったのだが,なぜか曹芳だけは殺されずに生き残った。「国際政治的な利用価値が極めて高い」と司馬氏が判断したからであり,事実,そのようになったのだろうと思う。
このように考えてみると,私の「シンクロ理論」の欠点を全て解消することができるということに気づいた。
まさに「秦始」であり,「太和」である。
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