たぬきの古名「まみ」については既にブログに書いた。
http://cyberlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-e416.html
狸と対応する狐の語源もよくわからず,調べてみたところ,結局,『日本霊異記』にある狐女房の話が一番古いのだろうという結論になった。中国語では「きつね」とは発音しない。漢字の音読みでは「こ」,Pinyinでは「hú」となる。
狐女房
http://www.hyakujugo.com/kitsune/kenkyu/kigen01.htm
ストーリーそれ自体としては,中国の説話などによるあるもので,おそらく古代に中国から輸入された説話集のようなものにある話をアレンジしたのだろうと思う。
普通は,それでおしまいになる。
しかし,私は,もっと考えるべきことがあると思う。
それは,当時としては比較的ありふれた説話がどうしてわざわざ『日本霊異記』の最初のほうに古代の伝承として収録されたのか・・・というあたりがひっかかるからだ。
あくまでも素人の仮説に過ぎないが,この話に出てくる狐女とは,実は華人のことを指し,「岐都禰」とは,「華人に根のある人(華人の子孫)」という意味ではないかと思う。「岐都禰(きつね)」の「都(つ)」を英語の「of」・日本語の「の」と同じように解釈するわけだ。
古代において,「禰」は,しばしば「根」と置き換えて使用されていた。その逆もある。
「岐」が問題になるのだが,仮説としては,「華」をあてたい。もちろん,別の仮説も成立可能だと考える。
全体としては,倭人の女性だと思って結婚してみたら華人の女性だったというストーリーの説話になる。
中国の説話だと,ここらへんで驚いて殺してしまうというストーリーが多いのだが,『日本霊異記』では,周囲の目(犬が吼える)を気にして狐妻が別居した後にも愛し合い,狐妻との間の子供をちゃんと育てたというあたりが倭人の優しさ・寛容さ・包容力のようなものを感じる。自分達とは異なる系譜の人々を拒絶したり排除したりはせず,その子孫を大事に育てるという文化の基礎がここにある。
異民族を排除する傾向の強い人は,もしかすると,排除的文化を濃厚に保存している異民族系の家系の人々であり,倭人ではないのではないかと考えることもある(あくまでも司馬良太郎の見解に過ぎないが,司馬遼太郎は,新撰組について,本当は農民であるのに剣術を習って武士道に目覚めてしまったため,ことさら武士であろうとしたと評価している。実際に徳川将軍家の家臣だった本物の武士は,それほど武士的ではなく,とりわけ下級武士は町民とほとんど変わらなかったと考える。勝海舟がその例の1つではないかと思う。ただ,武士と一般庶民とで異なる傾向は存在していたかもしれないと考える。それは,武士というものは,基本的に教養を重視する人々だったということだ。当時,高等教育を受ける機会として武士のほうが勝っていたから,その結果に過ぎないのかもしれないが,個人的には興味深い現象だと思っている。明治時代以降においても,本物の職業軍人は,教養を重視し,古今の戦争の歴史を学び,無意味な戦闘を避けるという傾向が強かったと思っている。)。
倭人は,田で稲をつくる農耕民族であり,和を最も尊ぶ。そして,収穫があれば、それを祖先神にお供えして,感謝し,来年の五穀豊穣を祈る。そういう民族なのだ。
おそらく,中国の夏王朝では,そのような文化が支配的だったのが,その後の遊牧民主体の王朝による支配の持続により,中国の基本文化が希薄化したのではないかと思う。中国の田舎のほうの普通の人々は,今でも優しく寛容で,よく日本の評論家等が批判するような自己主張の強すぎる人々ではない。
Twitterなどのネット上のソーシャルメディアにあるネタだけでものごとを判断するクセがつくと,全体像を見失う危険性が高い。もちろん,ネット上のソーシャルメディアでは情報操作が意外と簡単にできる。
企業経営者としては,ネット上の評価だけに依存するような経営判断のやり方は致命的な欠陥を有するものだと悟り,もっと別の方法を考えるべきだと思う。
こういう分野を専門とする研究者等には,表面的な利便性だけを考えて商業宣伝広告の一種だとしか評価できないような論文もどきの文章を出すことはやめて欲しい。そして,もしそういうものしか書けないのなら,研究者ではなく,広告代理店の仕事に転職すべきだと思う。厳しい自戒を求める。
ちなみに,韓国の国力(特に製品開発力)が著しく低下してしまった最大の原因は,まさにここにあると考える。インターネットを万能のものと誤信し,ネット上の評価に依存する体質となってしまったため,事実を直視することなく,単なる情報のみによって判断が支配され左右されるようになってしまったと考える。しかし,ネット上に存在する情報は,要するに誰かが過去に作り出して符号化たものに過ぎないので,それをどれだけ集めて解析したところで,必ず二番煎じとなってしまうという宿命を負っている。
私が「ビッグデータ」にあまり好意的でない最大の理由もまた,ここにある。
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